俳句は物や風景をよく観察して、そのありさまを絵のように十七文字の中に写し取る文芸だと言われる。いわゆる〈写生〉その手法を確立したのは正岡子規だというのが定説らしいが、なに、芭蕉翁の有名な句「五月雨をあつめて早し最上川」だって、どうしてどうして、見たまま、感じたままの光景をそのまま表現した〈写生句〉だといえる。
なら、名句と駄句の差、月並と秀逸の違いはどこにあるのだろうか。
後藤比奈夫という俳人がいる。彼はその著書『今日の俳句入門』の中で、こう説いている。「「客観写生」とは心で作って心を消すこと 」
つまりは、作意が透けて見えてはいけない、自然のありままをもっとも適した言葉で表現するのが良い、そのために作意の痕跡を消せ、ということだろう。心で作るだけでなく、心を消したものだけが名句になりうる第一条件だと言っている。子規は、既にして知識や教養にもたれた「ひねり」や「くすぐり」を嫌っていた。ひねり、くすぐりは一種の暗喩や隠喩のはたらきによりかかって、頭の体操のような「お遊び」になる、と。そうだよな、仲間うちや、情報通にだけわかる表現が持てはやされる風潮はヤダよな。
後藤比奈夫の父上・後藤夜半にはこんな一句がある。
「瀧の上に水現れて落ちにけり」
イイなぁ。余計なものが何もなくてパワフルかつ正確。しかもスーパースローモーション撮影を見るようで迫ってくる。圧巻 あっぱれ。
「心で作って心を消す」覚えておいて損はない。