2ペンスの希望

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S塾長 機械vs人間 複製vs生

小学校の先輩が、大阪のニシナリで五年ほど前から『楽塾』というガッコーをやっている。「学びたくても学べなかった人、もう一度学びなおしたい人たちの学びなおしの場」である。モットーは「あそびを学び、まなびを遊ぶ」 素敵だ。
今日は、ご当人の許可を得て映画にも音楽にも詳しいその先輩:S塾長から届いたメールを紹介する。

俳句も、文学も、絵画も、芝居も、長い歴史のたまもので、
しかし映画はたかだか100年そこそこで終息するのか。
僕は、映画はやはり機械芸術という宿命づけられた物質がためと考えるのです。
確かに人間の情熱や、怒りや、喜びがフィルムに投影され、
素晴らしい作品を積み上げてきたとは思いますが、
表現を媒介するものが機械である点に注目します。
レコードもそうでした。アナログからデジタル、どんどん複製の進化が著しいです。
映画もいわば複製の先端。資本の論理が優先されます。
映画という、理性と官能を刺激する素晴らしい芸術もまた
資本の餌食になりやすく、
また、より複製化させやすい機械を作り出して行くことに資本は目がありません。
ことは映画世界だけに限らず、すべての分野で末期的状態を呈しているのだと思います。ひょっとしたら、私たちはソドムの町をなぞっているだけかも知れません。
そろそろ滅亡も近いのでは、なんてね。

確かにそう。Sさんの言うとおりだ。カメラも録音機も編集機材も機械だ。映写機も最新技術のかたまりだ。しかし、だ。そうではあっても、私たちが見聞し心打たれるのは、作り手の魂・志・技そのものだ。それ以外ではない。音楽の世界も同じことだろう。レコードからテープ、CD、MD、メモリーカード、ネットを通じたダウンロードへ、媒体は変わろうと歌い手の肉声・ライブが原点であることに変わりはない。そんなことは百も承知でS先輩はメールを送ってくれたのだろう。資本にも機械技術にも負けない人間の底力に対するエールだと受けとめて、精進したい。
音楽には肉声があり、ライブがある。
映画には肉声はあるか、ライブはあるのか。
拙管理人は、あると信じる。「映画の肉声」、「映画のライブ」‥‥。