インディーズから始めた映画監督は、メジャーデビューしたあとは、大きなバジェットでの仕事に移行・専念することが多い。お金も役者もふんだんに使える、何もかもが桁違いなのだからそうなるのは当たり前だ。けど、その分、縛りや負荷も大きくなる。博打の張り金・リスクとプレッシャーも半端ない。重さゆえの負担増加と軽さゆえの工夫必至。
濱口竜介さんは、メジャーとインディーズ両方で映画を作る。今のところ エンタテイメントとインディペンデンス:二刀流だ。
賢い。というより賢明というべきか、賢明にして懸命の道を行く。どちらも大変なのだ。(二刀流をつかう日本の監督さんは他にもおられるが、クラスが違う。アタマもウデも段違いだと思う。ZZさん失礼 ゴメンナサイ )
その昔、〈映画は画面に映っているモノがすべて、目を凝らせ〉と「表層批評宣言」なるものを唱えたエライさんがいたが、濱口映画はメジャーとインディーズ両方で《「見えるものと見えないもの」その間(あわい)を行く》という映画の大テーマといつも格闘している。
そう思っていたら、先だってのブログ記事『琥珀色の戯言』とは別にこんなページを見つけた。早川由真(はやかわゆうま)さんという若い映画研究者が書いた『ドライブ・マイ・カー』評に出逢った。
末尾にこうあった。
「最終的にこの作品は、見えないものを想像する自由をも拒もうとはしない。そのような余地までをも周到に組み込みながら、この作品は単に見えること、あるいは単に見えないことの明瞭さを通じて、他者の底知れなさを垣間見せてくれる。」
どこまでも明瞭で、だからこそ底知れない ――濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』について(早川由真)|Hayakawa Books & Magazines(β)