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JLGインタビュー「映画は死のうとしている、映画万歳!」

今日は昔話を少々。1989年12月EURIKA臨時増刊

ダニエール・エイマンがJ-L・ゴダール以下 JLG)にインタビューした記事「映画は死のうとしている、映画万歳!(訳・構成 奥村昭夫)。発売当初むさぼるように読んだ。スコブル面白くって線を引きながら何度も何度も‥。ピカイチ!今もJLGの発言の中で一番のお気に入り、だ。ということで、いささか長い引用掲載だが 乞うお付き合い。

JLGは1989年アンヌ=マリー・ミエヴィルと組んで『ダルティ報告:Le rapport Darty』というドキュメンタリー映画を撮っている。

(ダルティ商会はフランスの家電販売チェーン、いってみればヨドバシカメラヤマダ電機みたいなものだろう。)そのことにまつわるJLGの発言。

ぼくはダルティ商会との間で、ある商会の企業報告、といっても映像による企業報告をつくることで合意した。あの商会はフランスで第一級の販売後のサービス網をもっている。だから《フランス》《事後》《販売》《第一級》《サービス》の五つについて考えれば、それだけですでに五つのエピソードが、ひとつのシナリオができあがるわけだ。そしてそれを撮れば、あの商会の連中は見ることができる。自分たちを見ることができる。見るというのはなにかの役に立つことなんだ。見ることによって、文章を読んだり講演を聴いたりする場合に得られるのよりも明確な出発点を手に入れることができるんだ。

 映画はかつては、世界を見、それによって、それまでは理解していなかったものごとを理解できるようになる可能性というものを体現していた。そしてこの可能性というのは、同時に運動と拡大と類推を意味する言葉である、《映写する(あるいは「投射する」「企てる」)》という意味が持っている観念そのものなんだ。だれもが言っていることとは反対に、映画は本質的にはスペクタクルではない。思考の一形態なんだ。スペクタクルは、映画が経済的に生き残るための手段をなしているだけなんだ。それでも、見ることによってある特別のやり方で思考するという映画のこの機能は実際は、トーキー映画の出現以降はほとんど活用されてこなかった。そして衰弱してしまった。この機能がほとんど活用されなかったのは、見ることができるようになる可能性が姿をあらわすと同時に、見ることに対する恐れが生じるようになったからだ。そして勝ったのは恐れの方なんだ。」【太字強調は引用者。引用の大元は〈ル・ポワン〉誌1987年12月28日号 ジャン=ミシェル・フロドンによるインタビュー「ゴダールが戦争に行く」より】

そうだよなぁ。

映画は本質的にはスペクタクルではない。思考の一形態なんだ。見ることによってある特別のやり方で思考するという映画のこの機能

ディズニーもマーベルもこの機能を忘れて貰っちゃ 困る。

映画がとめどなくド派手なスペクタクルの道を進み続けているような2023年初頭、あたらめて「初心忘るべからず」と思い、書いてみた。