2ペンスの希望

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黄昏‥‥㉔

㉔は原一男 1945(S20)年6月 生。

原一男といえば、この一本『ゆきゆきて、神軍』(1987年) に尽きる。

かつて、尾辻克彦が「プッツン物件」と呼び、小林信彦が「ハードボイルド的主人公による謎解き映画」と指摘した映画である。

ファンが多く、時を経て何度も、ゾンビのように、復活注目され続ける一本。

未見の方にはご覧いただくしかないが、見た方はその扱いがどんどん派手になっていくことに今どんな思いを抱かれているのだろう。他の原一男映画は別として、管理人は「映画らしい映画の持つ力」を強く感じた一本だった。

多分試写室でみたのであろう上野昂志は、末井昭編集長「写真時代」にこう書いてエールを送っている。(白夜書房「写真時代」1987年8月号)

長いこと公開の決まらなかった『ゆきゆきて、神軍』は、渋谷のユーロスペースで八月一日から公開するという。あとはなるべく多くの人が見られることを!

こんなエピソードも‥書いている。

もっとも、奥崎が撮ってもらいたかったのは、一般的にはほとんど無名に近い原一男ではなく、もっとはるかに有名な今村昌平だったらしい。その辺については「イメージフォーラム」六月号の原一男の制作ノートを読むとおもしろい。

その「制作ノート PART1――国内篇」の書き出し部分がコレ。(古い書棚から引っ張り出して書き写してみる)

「奥崎健三さんに直接会ってみたいんですが」

「そうか、それなら私から君たちが訪ねていくことを電話をかけておくから、それからこれを渡しなさい」

今村昌平監督は、そう言いながら、原一男君を紹介します、と書き添えて、自分の名刺をくれた。

数日前、これをやってみる気はないか、と今村監督から『田中角栄を殺すために記す』と、どぎついタイトルのついた奥崎謙三自費出版の分厚い本を渡され、読んで、どんな人物か会ってみたくなったのだ。

昭和五十六年十二月、私は永年の相棒であり、妻であり、わが疾走プロダクションのプロデューサーである小林佐智子と、神戸へ向かった。

 

‥‥(中略)‥‥小林と私は、ただ、ハア、へー、ふーむ、ホー、の相槌のみ。完璧に奥崎の気魄に飲み込まれていた。‥‥(中略)‥‥

 

昭和五十七年の年が明けて、二度目、神戸を訪れた。

「やります」

と言う私たちに、奥崎は半信半疑という表情を浮かべていた。

そもそも、今回のこの映画の話、奥崎の方から今村昌平監督に自分の映画を撮てくれないか、と望んだことだった。それが、どこでどうしたのか、眼前に現れたのは、奥崎にしてみれば何の実績もあるように思えない、若造。戸惑っているのだ。

「原さんたちは今までに、どんな作品をお作りになってらっしゃるんですか」

と問われて、前二作『さようならCP』『極私的エロス・恋歌1974』の、簡単な説明をしたが、自主映画のドキュメンタリーのことなど知る由もなさそうな奥崎に、内容も、テーマも。たぶん伝わらないだろうと思った。

社会思想社刊 現代教養文庫155『ドキュメントゆきゆきて、神軍』】

本では、このあともお金(=制作資金)を巡っての面白いやり取りが続くのだが‥‥これはまた別の機会にでも。