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森達也『私的邦画論』から その3

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Newsweek 日本版 2021.03.23. 「映画とテレビは大違い② 森達也vs原一男

2002年頃だったと思うが、原一男監督に初めて会った。場所は渋谷のNHKの会議室。番組出演ではない。NHK労働組合である日本放送労働組合から、公開で対談を依頼されたのだ。

原が『ゆきゆきて、神軍』を発表したのは1987年。僕がテレビ・ドキュメンタリーの世界でADからディレクターに昇格した頃だ。とんでもないドキュメンタリー映画の話題は耳に入っていた。劇場では毎日立ち見だという。

でも観に行かなかった。理由の1つは、この時期は毎日がとにかく多忙だったから。でもその気になれば、時間はつくれたはずだ。つまりこれは後付け。本当の理由は、ドキュメンタリー映画とテレビ・ドキュメンタリーは全く違うジャンルだと何となく思い込んでいたから。自分に言い聞かせていたのかもしれない。

ある意味でそれは正しい。『ゆきゆきて、神軍』を地上波で放送することは、当時も今も難しいだろう。ただしそれは、明確なルールに抵触しているからではない。犯罪者を被写体にしてはいけないというルールはない。ではなぜ?

そもそもドキュメンタリーは肖像権やプライバシー保護とは相性が悪いジャンルだ。一方で、犯罪者を被写体にしてはいけないとのルールなどない。つまり、放送できないという大前提がまずあるのだ。なぜなら視聴者やスポンサーからのクレームが予想されるから。実はこれに尽きる。

対談の際、会場(ということはNHK職員)からは『A2』についての質問が続き、原は気分を害したのかもしれない。君は映像に美学がないとふいに言われた。さらに、なぜ原さんはオウムを撮ろうと思わなかったのかと質問されたとき、私も宗教団体の教祖や右翼のボスを撮ろうとしたことはあるんです、と原は答えた。でも結局は裏に回ると、大物のはずが金策に苦労したり給料を払えないと頭を抱えたりしていてがっかりするんです。この説明に僕は思わず、そっちのほうが面白いじゃないですか、とつぶやき、ああ君はそうだね、とあっさり受け流された。だからダメなんだと言わんばかりに。

もちろんこれは僕の視点。しかも20年近く前だ。原の記憶とは微妙に違うかもしれない。でも後輩に対してムキになる大人げない原は、当時も今も変わっていない(と思う)。だからこそ、誰も撮れない作品を原は発表できるのだ。

 

一読すると、原を揶揄っていように読める。だが、立ち位置の違い、大先輩に対するほのかな敬意も感ずる。 映画とテレビ・ドキュメンタリーの違いについては、明日に続ける。