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筒井康隆の映画本

少し前に読んだ筒井vs.蓮實の対談本の流れで、筒井の新書『活劇映画と家族』【2021.7.10. 講談社現代新書2626 】を読んだ。

昔の洋画を浴びるように観て育った筒井ならではの映画観が小気味よい。

のっけから「正確には「活劇映画における疑似家族」というタイトルとすべきだが、くだくだしいので簡単にした。」「洋画における活劇映画はギャング映画に限ったことではないので、冒険ものや探検ものや探偵ものや戦争ものなども含めて「活劇映画」と総称させていただく」と筒井節全開。ラオール・ウォルシュハワード・ホークスジョン・ヒューストンらを中心に1940~1960年代にかけての洋画(ほとんどアメリカ映画)が取り上げられて懐かしい。

『ハタリ』(1962)についてのこんな記述。(余談だが、管理人は十代半ば、大阪阿倍野「近映大劇場」で観た。)

ハワード・ホークスの活劇映画には必ずこうしたドメスチックな要素が加わっているのが特徴である。以前、三島由紀夫賞の選考委員をやっている時、ある作品を評して「ハワード・ホークス作品みたいなドメスティックな雰囲気が好ましい」と言ったところ、石原慎太郎が「ハワード・ホークスって活劇の監督だろう」と言って、彼を単なる活劇の監督としか捉えていないことを知ったのだったが、もちろんホークスは一般にそう思われているような、そんな狭い範疇に収まる監督ではない。蓮實重彦に言わせれば「もう映画そのもの」であって、「映画以外に何もない、ポストモダンそのものだ」とまで言っているのだ。小生引用者註:筒井)はさらに「その上 映画のプロであり最高の技術者でもある」と思っている。思想も主張もなく、そこにあるのはただ観客を楽しませるためのプロの技術者である。そしてできるだけ多くの観客を楽しませせるための仕掛けこそが、疑似家族の設定、つまりはドメスティックな雰囲気なのだ。(太字強調は引用者)

十代のはなたれ小僧時代には分からずただ大スクリーンにハラハラドキドキしながら見入るだけだったが、七十半ばになって、その奥行・心地よい仕掛けの妙も少しは理解できるようになってきた。

筒井の映画本には古くは『不良少年の映画史 PART1・2』【1979.11.25. 文藝春秋 刊】があったし、映画監督 内藤誠には『映画的筒井論と康隆的映画論』【1985.10.20. 有楽出版社 発行  実業之日本社 発売】なんてのもあった。