2ペンスの希望

映画言論活動中です

「映画の終わりが、実は始まりなんだ」

さらにさらに先一昨日(さきおとつい)からの続き。

「映画の終わりが、実は始まりなんだ」

小津は口癖のようにそういった。至言というべきだろう。その上小津自身の作品の、あったさまをよくいいあてている。思い返して見れば、スクリーンの上に〝終〟の一字が出た時、常に人々は登場人物がこの先に生きる人生の種々相を思わされたものだった。

高橋治の小説『絢爛たる影絵 ー小津安二郎ー 』【1982 文藝春秋 刊】

f:id:kobe-yama:20191125073651j:plain

気になる登場人物は、主人公だけとは限らない。

映画の中で「性格」:その人の心根がわかった人・腑に落ちた人はいずれも気になるものだ。

そのあたりの塩梅・揺るぎなさも映画の質、出来不出来を決めるひとつだ。

勘定合っての銭足らず

さらに一昨日(おとつい)の続き。

どんなに今日的な題材を捉えようが それに社会性があらうが その語り口が説明でハ 劇にハならない

いくら理論的に言葉の綾でせめても 所詮ハ勘定合っての銭足らずだ 自戒

一九六一年六月三日の小津日記。

f:id:kobe-yama:20220410172216j:plain

「一見辻褄が合って、破綻せず良く出来ている。理屈の上ではうまくいってるように見えるけれど、感興・情趣には乏しい、そんな映画を作っててはダメだよ、落第。」

この日記の一節を読むだけで、小津の姿勢はよく分かる。

一見穏やかで親しみやすいホームドラマ・小市民映画に見えるが、その奥には国家・時代・社会の洞察という錘鉛(すいえん)が仕組まれている。時代性と普遍性の絶妙なバランス。超絶技巧の業師がつくる劇薬映画。恐ろしいほどの奥行きの深さ。世界の映画人が舌を巻くのも当然だろう。

こんなのを読むと、世界のクロサワ(もちろん黒澤明のことだ)はせいぜい中学生レベル、可愛いもんだ。ナルセだってミゾグチだって大人でこそあれ伎倆はまだまだ、そう思えてくる。

颯爽&清潔

昨日の続き。座談会「映画と文学」(1947年 春)

小説家と映画監督、当時は結構交流が盛んだったようだ。谷崎潤一郎のように

映画会社の顧問を務めた例もある。志賀直哉もかなりな映画好きだった。

研究者によれば、この座談会で小津は初めてこの敬愛する文学者志賀直哉に出会っている。その後、親交は深めている。

後年『お茶漬の味』を観た志賀直哉は「非常に面白かった、一番感心したのは画面が清潔できちんと整理されていてとても美しく感じた、そして何よりもいいと思ったことは、後味が非常に気持ちが好いことだ」と語っている。

カメラ位置の低さ・ローポジションについても、「あの位置は非常にいい。あれで全体がきちんとするんじゃないのかな。」と評価する。見巧者だったのだろう。

一方、小津は志賀直哉の全集本に「志賀先生にお目にかかると、いつも、それからしばらく、なんとも云へない爽やかな後味がのこって、僕の心のどこかを、涼しい風が吹き抜けます」という推薦文を寄せている。

20歳の年の差を超えて、互いによき理解者だった二人の颯爽&清潔。佳き哉。

f:id:kobe-yama:20220302122258j:plain

「筋 → 表情 → 性格」

映画も初期は筋を運び、次は表情を表す時代に発展し、そろそろ性格を表す時代になったと思う

誰の言葉か?って。小津安二郎だ。

1947年(昭和22年)春、『長屋紳士録』試写会後の座談会「映画と文学」での発言。出席者は小津以外に、志賀直哉飯島正ら。GHQ占領政策下で発行されていた映画雑誌『映画春秋』第六号に載った。小津43歳、まだ『晩春』(1949)も『東京物語』(1953)も撮っていない。「筋を運ぶ時代から、表情を映す時代へ、そして性格を表す時代へ」

なんとも鋭く深い予言ではなかろうか。

f:id:kobe-yama:20220407092646j:plain

作風は違うが、森崎東監督がかつて雑誌『公評』2000年9月号に書いた「性格が描かれていれば何も要らない」という文章を久方振りに思い出した。

(このことは2013.12.30.のブログ=

「性格さえ描かれていれば、それで良い」 - 2ペンスの希望

で書いている。宜しければどうぞ)

《彼我の差》エンカとトロット

永年 日韓の大衆音楽について調査比較研究を重ねてきた友人から、「2年あまり前に出した本=日本版『日韓大衆音楽の社会史 エンカとトロットの土着性と越境性』(⇒ 日韓大衆音楽の社会史 - 現代人文社 ) の韓国語版が現地出版されたよ」という便りを貰った。

日本語版は、面白い視点と切り口で愉しく興味深く読んだのだが、音楽業界における演歌の衰弱(イマドキの言葉で言えば、オワコン?)もあってか、本はあまり売れていないみたいだ。今回はその改訂版。

韓国語はサッパリわからない(英語だってそうだし、母国語=日本語だってあやしいもんだ)けど、本の表紙をみて《彼我の差》を強く感じた。

f:id:kobe-yama:20220407095549j:plain

f:id:kobe-yama:20220407095611j:plain

韓国版のタイトルは『韓国のトロットと日本のエンカ』

もとより、好き嫌い 好みは人それぞれだろうが、韓国版の方がデザインも垢抜けてて数段お洒落。そそられる。コレ管理人だけだろうか。

良くない拡大解釈・妄想だが、韓国映画と日本映画、《彼我の差》まで 感じてしまった。(『パラサイト 半地下の家族』は2019年第92回アカデミー賞:作品賞 監督賞 脚本賞 国際長編映画賞4部門受賞。『ドライブ・マイ・カー』は2021年第94回アカデミー賞:国際長編映画賞のみ)← きっと だれかに「そんなの関係ねえ」と言われるだろうな。恨み節 無い物ねだり で ゴメンナサイ。

駆け込み 国芳 展

駆け込みで京都文化博物館の『挑む浮世絵 国芳から芳年へ』展を観てきた。歌川国芳一門のコレクション150枚が並ぶ。

幾つかをピン留め。まずは寄せ絵。

f:id:kobe-yama:20180517142112j:plain

 顔だけじゃない。猪口を差し出す手元も、着物も、首筋も。

f:id:kobe-yama:20220406100238j:plain

こちらは、沢山の獅子で描かれた牡丹花。中央の袋に噛みついている獅子鼻、茎も組紐仕立て。添えられた賛も一興。

f:id:kobe-yama:20220406123919j:plain

f:id:kobe-yama:20220406123949j:plain

f:id:kobe-yama:20220406124010j:plain

将棋の駒の見立て合戦。

f:id:kobe-yama:20220406124611j:plain

一門 歌川芳虎が描いた「道外武者 御代の若餅」。賛は「君が代をつきかためたり春のもち」。織田信長(瓜の花の紋所)明智光秀(桔梗紋)と共に餅をつき、其つきたる餅を豊臣秀吉(陣羽織の猿)がのしをし、徳川家康は座して其餅を食するの図。

150枚目 最後は 国芳「浮世よしづ久志」

f:id:kobe-yama:20220406130134j:plain

右上隅に後姿の国芳

f:id:kobe-yama:20220406132807j:plain

猫と着物柄豊臣秀吉の桐紋に似せた国芳のトレードマーク=芳桐紋。江戸徳川時代をおちょくったのか)がご当人であることを語る。

この展覧会なかなか趣向を凝らした構成で愉しめた。

竹宮メモ 物語と絵

竹宮惠子の『少年の名はジルベール』を読んだ。【2016.2.1. 小学館 刊】

f:id:kobe-yama:20220405231717j:plain

1970年から72年にかけて、竹宮惠子萩尾望都増山法恵(知らずば ググッて!)らが同居し、多くの少女漫画家と卵たち、編集者、ファンが出入りした〈大泉サロン〉の見取り図が出てくる。築30年超のオンボロ二軒長屋。一階の四畳半に小さなコタツ。ここがサロン、少女たちの梁山泊だった。

f:id:kobe-yama:20220405220545j:plain

二階は南向きに竹宮の机と椅子とベッド、西向きに萩尾の座卓。萩尾の寝起きは布団だったとある。

f:id:kobe-yama:20220405220750j:plain

三人は誘い合って映画もよく観ていたようだ。「一番よく行った映画館は池袋の文芸座だった。」とある。

増山さんは「私ね、本物しか好きじゃないのよ。一流ってね、そんなにたくさんあるわけじゃないのよね。売れるものや流行りのものは、その都度いくらでも出てくるでしょう。でも一流の数は、すっごく少ない。」と語り、「脚本の優れているところはどこか、伏線の張り方や物語の構造について」などと詳しく話す。

増山さんが物語中心に映画を観るタイプだとしたら、私たち(註:竹宮や萩尾)はビジュアル中心に観ている。「考える」の前に「観る」がある感じだ。ストーリ―の面白さも絵(ビジュアル)があればこその面白さなのである。絵画であれ、映画であれ、それがどういう絵で、どういう構図で、どういう技法でそれを表現しているのかということに関心がある。

物語派と絵派。いつの時代にもある背中合わせ。両方揃わなければ何一つ始まらないことに気付くためには、それなりの時間と経験が必要ということなのだろう。

f:id:kobe-yama:20220406085446j:plain

んっ、この絵はなんだって? 一応、

鳥かご=物語=枠組み=シナリオ、

鳥=絵=語り口=演出、のつもり。両方相まって「映画」ってことで。