2ペンスの希望

映画言論活動中です

『映像インタビュー術』と『‥フムフム‥』

人の心を動かす!映像インタビュー術』という本を読んでみた。【2023.11.27.玄光社

6人のビデオグラファーと3人のドキュメンタリー映画監督が登場する。(不勉強でゴメン。ビデオグラファーという言葉 初めて知った。写真家=カメラマン=フォトグラファーと称するたぐいか と。ネットを漁ってみた。かつてフィルム撮影していた時代、映像作家= シネマトグラファーと呼ばれてたのが、ビデオに代わって映像作家=ビデオグラファーへ‥とあった。「少人数マルチスキルで、撮影から編集までを一貫してつくるスタイル」との定義も。なるほどね。既に十分市民権を得ている言葉のようだ。時代遅れのロートルポンコツはダメだね。けど、話の主眼はこれじゃない。)

この本 いかにも玄光社らしいつくり、カメラ・照明・録音機材の情報まで懇切丁寧・微に入り細を穿った教則本だ。QRコードを読み込めば即座に参考動画が視聴できる親切設計。試しに幾つか覗いてみた。(ビデオグラファー諸氏の作られた)映像はどれもスマートで流れるように心地よい。見映えもよい。けど、それだけだ。ウエハースのように溶けて何も残らない。テクニックやノウハウをいくら重ねても、はらわたには届かない。お門違い、無いものねだりは承知で、こんな嫌やごと 書いてみたくなっちゃった。(時代遅れのロートル=意地悪爺さんはホントにダメだね。)

それより、おススメ本はコチラ。⇒金井真紀 文と絵『世界はフムフムで満ちている 達人観察図鑑【2022.6.10. ちくま文庫

こんなページを貼っておく。



 

弥猛た?いえいえ 京都のドンだった

遅まきながら、ユリイカの『追悼・中島貞夫』特集【2023.10.1. 青土社を読んだ。

表紙に血の赤が鮮やかだ。

表紙に記載はないが、お世話になった知人が何人も文章を寄せている。懐かしい。

俺、弥猛た、だから」:或るインタビューでのご本人の答え。(「弥猛た」やたけた=南河内の方言。やんちゃ、むちゃくちゃ、破れかぶれ、破天荒、焼け糞(やけくそ)、火事場の馬鹿力、‥‥ググれば一杯 出てくる。大雑把、エエ加減、ちゃらんぽらん、なんてのも‥)

中島はいつも損してるんや。「斬り込み隊長」でありながら、二番手で亜流と思われてる。実録やくざ映画でサクさんの『仁義なき戦い』(1973)はみんな知ってるけど、中島の『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976)は知られていない。宮尾登美子ものでも五社さんの『鬼龍院花子の生涯』(1982)に比べると中島の『序の舞』(1984)の知名度は低い。笠原和夫さんと比較されて、二番手の脚本家と言われた僕にも同じ歯がゆさと悔しさがあんねん。」:脚本家・高田宏冶の言葉だ。

中島はいつも会社に便利使いされて、「ピンチヒッター」としての仕事が多かった。」とも。

またこんな発言も。

八〇―九〇年代、中島は頭のいい職業監督になって、最後まで東映やくざ映画に殉じた。そうなったのは、周りがそうしてしまったんや。頭のいい人間の悪い癖で、中島もどこか行儀がよかった(太字強調は いずれも 引用者)

東大でギリシャ悲劇研究会をつくり、縁あって東映に入社「ギリシャ悲劇は時代劇やな。なら京都撮影所や」と言われて配属されたという逸話が遺っている。

自分が映画を「選んでしまった」以上、自分の生き方が映画でなければならなくなっている。」(「企業内製作との論理と打開」雑誌『シナリオ』1972年6月号)

晩年、京都の映画人のドン(首領)として慕われ、活動された。管理人にも幾つも恩義がある。お返しも出来ず逝かれた。あらためて 合掌

「ドラマはあるけどチックがねえなあ」

このドラマにはドラマはあるけどチックがねえなあ」誰の言葉かって? マキノ光雄。彼がある脚本を読みながら言った言葉だそうだ。光雄は、御大マキノ省三の六男坊・華やかなりし頃の東映京都撮影所のドンである。

「? なんのこっちゃー さっぱりわからん。このおっさんあんまり頭よろしくないな」と思われそうだが‥、どうしてどうして そう捨てたもんでもなかろう。何が言いたいのかはうっすらだがじんわりと伝わってくる(ように思う)。

お話は出来てるけれど、味わいがない。パサパサで水分不足、一向に沁みてこない、そう云ってるんじゃあなかろうか。

頭や理屈で組み立てられてドラマの整合性はあってるけど、それだけじゃあ 人の胸には届かないよ、人間の心は動かせないよ、と言いたかったんだと思うのだが、どうだろうか。

頭でっかちで口ばっかり達者、腕はイマイチといった昨今の日本シナリオ作家協会の面々に訊いてみたい。

白鳥さんの本に寄せて④

本だけでなく、川内さんは大学時代の友人・三浦大輔さんと映画も作った。

2022年 / 16:9 / DCP / 107分

映画については未見でもあり これ以上は触れない。

代わりに、ライター川内さんの言葉を少々。

普段ものを書くときのわたしは、インタビューの録音を文字に起こしたあとは、よほどじゃない限り録音を聞き返さない。しかし、映像の編集作業では、何度も同じ場面を見ていくことになる。そうしていくうとに、言葉や会話だけではなく、ちょっとした表情の変化や息継ぎの間(ま)、指先の動き、吹き抜ける風、頭上を飛ぶ鳥、紅茶の湯気まで実際にそこにあるように感じられた。それは言葉というものを、それ以上の実体を伴った別の存在にしてくれる

同じ映像なのに何回見てもまったく飽きなかった。どうしてだろう。なんというか、映像という湖で泳いでいるうちに、その水の冷たさや、湖に棲む魚や鳥、沈んでいるゴミ、アメーバや有機物などそこにあるすべてが自分の中に浸み込んでくるみたいだった。

どれも映像制作では当たり前の所作、基本の基だが、文字の世界と映像の世界の違いが浮かぶ。ことばの抽象・記号性と映像の具体・包括性。純と雑。その扱い方 距離と時間の関数の違い。

〇言葉 ≦ 映像 イマ ココ ライブ と心得たい。

 

白鳥さんの本に寄せて③

次の動画を見て、「白シャツグループは何回ボールパスをしたか数えて下さい

www.youtube.com白鳥本には「この実験では、だいたい半数から三分の二のひとがゴリラには気づかなかったと答える」とあった。「パスの回数を数えることを指示されない場合は、たいていのひとがゴリラに気づくことができた。」とも。「参加者は「見るべきもの」に集中した結果、ほかのものが見えなくなっていた。」わけだ。これって、「セレクティブ・アテンション(選択的注意)と呼ばれる認知のバイアス」心理学の世界では有名な実験らしい。

〇「目が見えるひとも、実はちゃんと見えてないのではないか」

白鳥さんの実体験。或る作品展でアテンドしてくれた男性スタッフ。一枚の作品を前にして、「湖があります」と説明を始めた。そのあとに「あれーっ」と声をあげ、「すみません、黄色い点々があるので、これは湖ではなくきっと原っぱですね」と訂正した。男性は「自分は何度もその作品を見ていたはずなのに、ずっと湖だと思い込んでいた」と驚いている。それを聞いた白鳥さんも仰天した。

視野狭窄(tunnel vision遮眼帯(blinkers  blinders)‥‥

 どっちもどっち、どっこいどっこい(We're both~ )。

白鳥さんの本に寄せて②

美術館を出てからのやりとり。

Q:それって別々の「色」として識別してるんですか?

白鳥:ううん、概念として残るだけ

〇「色は概念的に理解している」

白鳥:一般的には「色」って視覚の話だと思われるんだけど、白とか茶とか青とか、色に名前があるという時点で概念的でもあるんです。それぞれの色には特定のイメージがあって、それを(視覚としてではなくその特徴的なイメージで)理解している

〇「言葉」で作品を見る行為

Q:やっぱり「見て」るんですね。

白鳥:そりゃそうだよ。盲学校でも「テレビを聞く」っていうひとはいないよ。たとえ目で見てはいなくてもテレビというものは「見る」ものだし、本は「読む」ものだよ。

簡単な描写を積み重ねること、解釈や意見をひとつにはまとめず、答えを統一しないこと

目が見えない人が傍(そば)にいることで、晴眼者は言葉を発し、確実に目の解像度を上げる。

視覚障碍者は同行者との「会話・対話=声」を通して、耳で見る、耳で読む。

持ちつ持たれつ の お互い様。

 

白鳥さんの本に寄せて①

刺激的な本と出合った。川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』【2020.9.8. 集英社インターナショナル 刊】目の見える川内さん(ノンフィクション作家)とその女友達マイティこと佐藤麻衣子さん(水戸美術館教育プログラムコーディネーター)全盲の白鳥健二さんと一緒に絵画や仏像などを見にいくルポルタージュ本だ。

晴朗女子二人組と全盲年長男性の凸凹アート遊歩。

同時進行で読み進めながら、気になった箇所をあれこれ書いてみる。

乞う御同行。(映画を見たり作ったりするときの何某かのヒントになると思うので。)

〇「見ること」の複雑さ

同じ絵を見ているのに、わたしたちはまるで違う絵をみているかのようだった。なぜここまで印象が異なるのか。‥‥ 徐々に「見ること」の複雑さが明らかになってきた。ものを見るうえで不可欠な役割を果たすのは事前にストックされた知識や経験、つまり脳内の情報である。わたしたちは、景色でもアートでもひとの顔でも、すべてを自身の経験や思い出をベースにして解析し、理解する。‥‥ 過去の経験や記憶といったデータベースを巧みに利用しながら、目の前の視覚情報を脳内で取捨選択し、補正し、理解している。

〇適度に無知であることはいいことである

バイアスなく、ただ無心に作品と向き合える。まるでガイドブックを持たないひとり旅みたいに。背景に精通し正しい知識やオフィシャルな解説を求めて一直線に正解にたどり着くのではつまらない。

さて、これは予断だが(㊟余談じゃないよ)

障害者は、おしなべて「触媒:Catalyst」か「加速器:Accelerator」なのかもしれない、この本の白鳥健二さんを見ているとそう思えてくる。自身は不変・不動なのだが、接する人達に化学変化をもたらし促す存在。