2ペンスの希望

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弥猛た?いえいえ 京都のドンだった

遅まきながら、ユリイカの『追悼・中島貞夫』特集【2023.10.1. 青土社を読んだ。

表紙に血の赤が鮮やかだ。

表紙に記載はないが、お世話になった知人が何人も文章を寄せている。懐かしい。

俺、弥猛た、だから」:或るインタビューでのご本人の答え。(「弥猛た」やたけた=南河内の方言。やんちゃ、むちゃくちゃ、破れかぶれ、破天荒、焼け糞(やけくそ)、火事場の馬鹿力、‥‥ググれば一杯 出てくる。大雑把、エエ加減、ちゃらんぽらん、なんてのも‥)

中島はいつも損してるんや。「斬り込み隊長」でありながら、二番手で亜流と思われてる。実録やくざ映画でサクさんの『仁義なき戦い』(1973)はみんな知ってるけど、中島の『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976)は知られていない。宮尾登美子ものでも五社さんの『鬼龍院花子の生涯』(1982)に比べると中島の『序の舞』(1984)の知名度は低い。笠原和夫さんと比較されて、二番手の脚本家と言われた僕にも同じ歯がゆさと悔しさがあんねん。」:脚本家・高田宏冶の言葉だ。

中島はいつも会社に便利使いされて、「ピンチヒッター」としての仕事が多かった。」とも。

またこんな発言も。

八〇―九〇年代、中島は頭のいい職業監督になって、最後まで東映やくざ映画に殉じた。そうなったのは、周りがそうしてしまったんや。頭のいい人間の悪い癖で、中島もどこか行儀がよかった(太字強調は いずれも 引用者)

東大でギリシャ悲劇研究会をつくり、縁あって東映に入社「ギリシャ悲劇は時代劇やな。なら京都撮影所や」と言われて配属されたという逸話が遺っている。

自分が映画を「選んでしまった」以上、自分の生き方が映画でなければならなくなっている。」(「企業内製作との論理と打開」雑誌『シナリオ』1972年6月号)

晩年、京都の映画人のドン(首領)として慕われ、活動された。管理人にも幾つも恩義がある。お返しも出来ず逝かれた。あらためて 合掌