2ペンスの希望

映画言論活動中です

備忘録 二題

今日は、映画の周縁からの備忘録 二つ。

1956年 京都生まれのAV監督ラッシャーみよしさんの本『AV監督ヒヤヒヤ日記』【2023.2.26. ワック株式会社 刊】

「はじめに」の一節 ⇒「考えてみれば、私は四〇年もこの世界(アダルト業界)にいます。その間に業界の様子もずいぶん変わりました。‥‥ 二〇二二年六月一五日、いわゆるAV新法「AV出演被害防止・救済法」が国会で成立しました。‥‥ それはいいのですが、問題はこの法律が拙速すぎて、結果、出演者の救済というより、AVを有害と断定して、AVそのものをなくしてしまえ‥‥と考える人たちの主張に近づきすぎてしまったことなんですね。

京都壬生にある「おもちゃ映画ミュージアム」で展示・開催中の『友禅染めの着物で❝映画❞をまとう~初期映画と染織に尽力した稲畑勝太郎にもふれて~』

お誘いのメール ⇒「“映画”を描いた面白柄の着物と帯をたくさん展示しています。撮影現場を描いた柄、人気俳優さんや人気キャラクターを描いたものなどとても珍しいものばかり。

ご興味の向きは、適当にググってどうぞ。

道楽:道を楽しむ ただそれだけのこと

道楽:道を楽しむ ただそれだけのこと。

地べたの日常生活の中で、喰うこととは別の楽しみ・余計なこととしてイソイソワクワク取り組むすべてのことは道楽だ。もとをたどれば音楽だって絵画だって皆そうだろう。やれ芸術だとかアートだとか崇め奉ったり、持て囃される必要なんてさらさらない。クラシックバレーだってブレイクダンスだって同じ道楽さ。

鶴見俊輔の〈限界芸術〉や都築響一の〈おかんアート〉のたぐい‥

いずれも、まず自らが楽しむ、時間を忘れ我を忘れて止むに止まれず没入 三昧‥。あまり人にお薦めできるもんじゃない。いずれもマイナー仕様。
映画だって同じことかも。ただ、はからずも映画は一時代 超メジャーになったことがあるゆえ、その栄光と悲惨を引きずり続けているんじゃなかろうか。娯楽産業としての映画が凋落し、映画の裾野が大きく広がりつつある時代の幕開けがもしかしたら始まっているんじゃないだろうか? 

竜馬の言葉だそうだ。剣道 柔道 弓道 ‥‥ 画道 歌道 棋道 書道  ‥ 華道 茶道 香道 ‥‥漫画道 映画道‥‥‥‥武士道 騎士道 任侠道‥‥ ∞

映画の沼にハマろうと思っている若い衆に

スコブル面白い映画本に出会った。

関本郁夫『映画監督放浪記』伊藤彰彦・塚田泉 編【2023.6.30. 小学館スクウェア 刊】

評論家や研究者センセの本より現場を知る映画人の書いた本のほうが数段面白くってタメになるというのは当管理人の持論だ。ただし、昔はよかった凄かったの懐古/回顧型自慢話本も混じるので注意が要る。古臭くカビの生えた昔話/おとぎ話にしかならない役立たずは敬遠してもよろしい。

この本は違う。

日の当たる表街道/大通りではなく、据えた臭いが漂う裏路地/けもの道を走り抜けてきた一人の映画人の自叙伝。元は1980年に出た『映画人カツドウヤ 烈伝』山下誠・河崎宏 編【1980.12.青心社 刊】

好評で初版5000部はたちまち完売、2002年には同じく青心社から「改訂版」が出たそうだ。【2002.5.青心社 刊】

高卒で東映京都撮影所に美術助手=大工見習いとして入社、退潮期の撮影所を生き、松竹・日活・東宝・角川と、〝渡り監督〟として映画とテレビを往還してきた映画人生指南本。

これ一冊読めば足りる。どこかの大学や専門学校で教わるよりはるかに実践/実利の教則本/教科書である。これから映画の現場で生きよう/映画の沼にハマってみようと夢見ている若い衆は騙されたと思って手に取ってみればいい。なあに買うことはない。近くの公立図書館に結構 蔵書している筈だ。

もっとも、撮影所のことなんてかけらも知らない、映画がメインと添え物の二本立て興行だったことなんて想像もできない、そういった御仁には、不向きかもしれない。

けど、映画という表現物が他と違って共同制作/集団創作を旨とし、企画から制作/製作、興行/流通、配信/販売までチームプレイ/何人もの人の手を経る代物であるかぎり、きっと役に立つ 示唆/姿勢/教訓/智恵 が読み取れるにちがいない。

この本、管理人もお世話になった方々が少なからず登場する。いささかながら関本監督に遅れて東映京撮周辺をうろちょろしたことのある身としては、末尾ながら、お名前を列記しておく。深尾道典監督、中村務脚本家、奈村協プロデューサー、石原昭美術課長、上田正直進行主任、中島貞夫監督、‥‥京一会館‥‥菅原伸郎朝日新聞映画担当記者‥

胸アツ「映画人」本

『映画館を再生します。小倉昭和館、火災から復活までの477日』【2023.11.30 文藝春秋 刊】は胸アツ本だった。

1939年(昭和14年) 祖父・樋口勇さんがつくった映画館を継いだ三代目館主樋口智巳さんが火災で焼失した映画館を復活させるまでの紆余曲折を編集者が聞き取って纏めたノンフィクション本。

黒田征太郎が壁に描いた「へのへの えいが」「へらへら えいが」‥

その他‥田中慎弥中村哲火野葦平~玉井金五郎、NPO法人「抱撲」、鮎川誠(四列七番)、リリーさん、青山真治村田喜代子、‥‥大勢が綺羅星のごとく登場する。なかで高倉健の手紙。

映画館閉鎖のニュースは、数年前から頻繁に耳にするようになりました。日々進歩する技術、そして人々の嗜好の変化、どんな業界でもスクラップ・アンド・ビルドは世の常。その活性が進歩を促すのだと思います」」

他人の力は借りず、自分の借金はつくっても、補助金はもらわない、寄付も受け付けないでやってきた先代の父・樋口昭正さん。そんなこと、言ってられない、と皆さんが差し出してくれた手を握り返して、一緒につないだまま、再建しようとする三代目の奮闘記。「映画館の運営は大好きで、自信はあります。経営者にはなりたくない。」「最高と最適はちがいます。」といった言葉も‥

以前、塚本晋也の本「『野火』全記録」を書いたことがあるが、「全記録」と謳うなら軍配はこの「小倉昭和館再生本」に挙げたい。おススメ。

『よもだ俳人 子規の艶』

夏井いつきと奥田瑛二の共著『よもだ俳人 子規の艶』【2023.9.30. 朝日新書924 朝日新聞出版を読んだ。拾い物だった。

よもだ」というのは伊予の言葉で「へそ曲がり」というか、「わざと滑稽な言動をする」というか、そんなニュアンスだ。と夏井さんは書いている。天野祐吉さん松山市立子規記念博物館名誉館長だったらしい。知らなかった。)は「ソッポを向く人」「反骨の精神をおとぼけのオブラートでつつんだような気質」と書いていることも紹介されている。教科書でもおなじみの子規の横顔写真も、「よもだ ゆえの所業」と説く。

そう云われて見れば、そう見えなくもない。三十四年の長くない生涯におよそ二万五千もの俳句を残した写生句の巨人・正岡子規。その中に遊里や遊女を詠んだ句が多くあることも知らなかった。この艶俳句に焦点をあてた三夜の対談本である。めっけもの。おすすめ。サクサク読める。とはいえどーでもいいようなことも混じるが‥奥田瑛二の本名が安藤豊明で、瀬戸内寂聴から「寂明」という俳号を頂戴したこともある俳句詠みだったことも初めて知った。俳優で俳句を詠む人はたくさんいる。成田三樹夫渥美清小沢昭一‥‥、最近では、梅沢冨美男も句集を出していることはご存知の通りだ。

〈第二夜〉東京 から一個所 引用。

現実と妄想の混沌、虚実混在のなせるわざ‥といったくだりを受けて

   ⇓

夏井映画監督と物書きとでは違いを感じてるの?

奥田違いがあるとすれば、映画監督は「より、リアリスト」なこと。独自な世界観(=妄想)は持ちながらも、目に見える現実からどうしても離れられない。というのも、映画監督は役者と観客をつなぐ橋渡し役だから。映画監督が現実と乖離してしまうと、作品が破綻してしまう。一方、小説の世界は、登場人物の脳内を「私は~と思った」で描写できてしまう。それが小説の力です。だから、物書きは万能だなと。

夏井:(物書きのほうは)目に見える形にしなくても、脳内で知らない現実を味わわせることができるんだ。

さして目新しいことが書かれているわけではない。ただ、「映画監督は役者と観客をつなぐ橋渡し役」という定義は、役者兼業の奥田ならではの視点だろう。

対談はこのあと奥田が尊敬する大先輩の名優さんとのエピソード「オオカミ少年」と「全部嘘」に続くのだが、あとは勝手にどうぞ 読んでみて‥。

 

『映像インタビュー術』と『‥フムフム‥』

人の心を動かす!映像インタビュー術』という本を読んでみた。【2023.11.27.玄光社

6人のビデオグラファーと3人のドキュメンタリー映画監督が登場する。(不勉強でゴメン。ビデオグラファーという言葉 初めて知った。写真家=カメラマン=フォトグラファーと称するたぐいか と。ネットを漁ってみた。かつてフィルム撮影していた時代、映像作家= シネマトグラファーと呼ばれてたのが、ビデオに代わって映像作家=ビデオグラファーへ‥とあった。「少人数マルチスキルで、撮影から編集までを一貫してつくるスタイル」との定義も。なるほどね。既に十分市民権を得ている言葉のようだ。時代遅れのロートルポンコツはダメだね。けど、話の主眼はこれじゃない。)

この本 いかにも玄光社らしいつくり、カメラ・照明・録音機材の情報まで懇切丁寧・微に入り細を穿った教則本だ。QRコードを読み込めば即座に参考動画が視聴できる親切設計。試しに幾つか覗いてみた。(ビデオグラファー諸氏の作られた)映像はどれもスマートで流れるように心地よい。見映えもよい。けど、それだけだ。ウエハースのように溶けて何も残らない。テクニックやノウハウをいくら重ねても、はらわたには届かない。お門違い、無いものねだりは承知で、こんな嫌やごと 書いてみたくなっちゃった。(時代遅れのロートル=意地悪爺さんはホントにダメだね。)

それより、おススメ本はコチラ。⇒金井真紀 文と絵『世界はフムフムで満ちている 達人観察図鑑【2022.6.10. ちくま文庫

こんなページを貼っておく。



 

弥猛た?いえいえ 京都のドンだった

遅まきながら、ユリイカの『追悼・中島貞夫』特集【2023.10.1. 青土社を読んだ。

表紙に血の赤が鮮やかだ。

表紙に記載はないが、お世話になった知人が何人も文章を寄せている。懐かしい。

俺、弥猛た、だから」:或るインタビューでのご本人の答え。(「弥猛た」やたけた=南河内の方言。やんちゃ、むちゃくちゃ、破れかぶれ、破天荒、焼け糞(やけくそ)、火事場の馬鹿力、‥‥ググれば一杯 出てくる。大雑把、エエ加減、ちゃらんぽらん、なんてのも‥)

中島はいつも損してるんや。「斬り込み隊長」でありながら、二番手で亜流と思われてる。実録やくざ映画でサクさんの『仁義なき戦い』(1973)はみんな知ってるけど、中島の『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976)は知られていない。宮尾登美子ものでも五社さんの『鬼龍院花子の生涯』(1982)に比べると中島の『序の舞』(1984)の知名度は低い。笠原和夫さんと比較されて、二番手の脚本家と言われた僕にも同じ歯がゆさと悔しさがあんねん。」:脚本家・高田宏冶の言葉だ。

中島はいつも会社に便利使いされて、「ピンチヒッター」としての仕事が多かった。」とも。

またこんな発言も。

八〇―九〇年代、中島は頭のいい職業監督になって、最後まで東映やくざ映画に殉じた。そうなったのは、周りがそうしてしまったんや。頭のいい人間の悪い癖で、中島もどこか行儀がよかった(太字強調は いずれも 引用者)

東大でギリシャ悲劇研究会をつくり、縁あって東映に入社「ギリシャ悲劇は時代劇やな。なら京都撮影所や」と言われて配属されたという逸話が遺っている。

自分が映画を「選んでしまった」以上、自分の生き方が映画でなければならなくなっている。」(「企業内製作との論理と打開」雑誌『シナリオ』1972年6月号)

晩年、京都の映画人のドン(首領)として慕われ、活動された。管理人にも幾つも恩義がある。お返しも出来ず逝かれた。あらためて 合掌