2ペンスの希望

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vsキタノ シナリオとは何か

当たり前のように「福島原発 最悪のシナリオ」といった新聞の見出しを目にする。‥いつの頃からだろうか、シナリオという言葉が一般名詞のように使われるようになったのは。

間違えないでいただきたい、シナリオは粗筋やストーリーではない。
その昔 世界的に知られた日本の映画監督Mが、当時駆け出し修行中のシナリオライターS(今は我が国最高齢の映画人)に
「これは脚本ではなく、ストーリーだ」と言ったというエピソードはよく知られている。 1スジ2ヌケ3ドウサというマキノ省三の言葉も有名だ。スジは、簡単には筋=ストーリーの面白さだと説明されている。確かにその通りなのだが、少々物足りない。マキノのスジは、もっと豊かなシナリオという内実をさす言葉だと考えたい。
現場の経験で言えば、シナリオとは、「プロの仕事」をするために必須の「設計図」なのだ。パートパートの関係者がそれを読めばそれぞれの持ち場で仕事と段取りが判るものでなければならない。プロデューサーなら、どれぐらいの予算・日数が掛かる読み込め、役者にとっては人物の性格を知り役作りに取り組むよすがとなり、技術スタッフは何を準備すればよいのかプランを練る、そのための「設計図」、丁度建築を建てるためには、誰でも読める設計図がなければならないようなものだ。

しかし、最近は、簡単な絵コンテとアバウトな説明だけで済ませることが増えている、と思う。一人か二人で、犬小屋を作るのならそれでも出来るかもしれない。(犬小屋と犬には失礼な言い草だが)
少々脱線だが‥昔TVの台本を読んでいて驚いたことを思い出す。ココはアドリブで、とか、以下お任せで宜しく、と言う表記が頻出していた。何だこれは!手抜きじゃないのか、と思ったものだ。ここでもJLGが「テレビは時間を埋めるだけ。伝達すること以外のことは何も出来ない。連中は役人だ。普及と配給の手段でしかない」といっていたのを思い出すが‥、話を映画に戻す。

映画の世界では、知られたエピソードをひとつ紹介・引用したい。登場するのは、ヤクザ映画『仁義なき戦い』の脚本家笠原和夫と、世界のタケシ北野武監督。時は1991年冬、その年の夏北野武監督「あの夏、いちばん静かな海」を見て噛み付いた。長くなるが、覚悟してお付き合いいただきたい。
出典:引用元は笠原和夫著『映画はやくざなり』(2003年6月25日 新潮社刊 「秘法シナリオ骨法十箇条」から

笠原はこう書いた。
誘われるままホイホイこの北野作品の試写に出かけ、あまりの詰まらなさに吃驚(びっくり)したが、しかし何より「脚本をどんなに軽んじても映画なんて撮れるサ」と言わんばかりの北野武氏の監督ぶりに心底腹が立った。
‥【註:そこで笠原は 雑誌「映画芸術」に映画評を寄稿する】
映画芸術」編集部が手に入れて見せてくれた「脚本」と称するものは、二枚の紙片の箇条書きふうに八十八のシーン・タイトルのみが列記され、それぞれに一行ずつ説明を加えたものだった。
実例を挙げれば、
⑲(シーン番号)喫茶店――楽しいデート 偽善的な伯母さんの施し
⑳バス停――ボードを持って乗れない一也(映画では茂)
という具合である。これが撮影時に使用されたホンだという。これはシナリオではない。せいぜい、手帳のメモと同質のものである。
わたしは脚本家である。こんなもので映画は作れますと言われたら、わたし自身ばかりか、日々彫心鏤骨して脚本と格闘している仲間たち、またこの道を築いてくれた先輩たち、惜しみなく力を貸してくれたプロデューサーや監督諸氏の立場があったものではない。

あんなもん責任放棄、
仲間うちの甘え・なあなあじゃないか、と言うのである。
こんなふうにも言えそうだ。
メモで済ませることが出来るのは、オレの言うことが分かる分かってくれる、仲間うちだからこそなのだ。タケシという権威・トップあってのこと、違ってたらやり直し、お金も時間をたっぷりかけても大丈夫というという我が侭ゆえである。やってはいけないことはないけれど、プロのやり方ではない。分かり奴だけ分かればいい、というところから人は閉じ始める。ヒエラルキーと権威が生まれ始める。
シナリオというのは、フラット(=対等)に仕事をするために作られる最低必要条件(の重要なひとつ)なのだと思う。

笠原和夫が偉いのは、そのあとの顛末だ。
再び、引用する。
この映画評の再録をわたしは拒んできた。ひとつには他人の作品を悪し様にけなしたことに寝覚めの悪さを覚えていたからであるが、もうひとつには、わたしが学んできた脚本の書き方が古くさくなってきたのではないかと感じ始め、北野映画に対する見方も変わってきたからだ。あのような映画もあっていいのではないか、と考えるようになったのである。
(中略)きっと、若い観客からは、わたしなどの骨身に沁み込んでいる昔ながらの映画の組み立て方はうっとうしく、北野武氏の作り方のほうがリアルに、ひりひりと身近に思えるのだろう。

笠原の謙虚は尊いが、
今の映画が、仲間うちの甘え・なあなあに閉じて、貧血状態に陥っているのなら悲しい。
閉じないこと、さらし続けることを忘れたくないと強く思う。