2ペンスの希望

映画言論活動中です

映画の「お客様」

必要があって、本棚から古い本を引っ張りだしてきた。
橋本治さんの『橋本治雑文集成パンセⅣ 映画たちよ!』(1990年4月 河出書房新社刊) こんなくだりが目に付いた。
俺は映画評論家じゃないし、映画関係者じゃないし、映画監督になりたい人でもないもん。そんな人間のくせに、やたらヘンなところで詳しかったりうるさかったりするんだったら、それは僕が、映画にとって「お客様」だからだ。
本当の「お客様」って、とんでもなくシビアーな目って持ってるじゃない。持って、黙ってるじゃない。あまりにもひどかったり、あまりにもよかったりすると、その時にだけたった一言、ホントに正しいことを言うのが「お客様」の正しい姿勢だと思うな。時々投書マニアみたいな人間が「自分は客だぞ」っていう傲慢な口のきき方してんのを見ると、腹が立つけどね。
だからって、自分が「正しい本当のお客様」になれてるかどうかはよく分かんない。「一流の客」になるのと「一流のアーチスト」になるのは、どっちもおんなじように難しいもんだって言うのは、一流のアーチストは客を育てるし、一流の客はアーチストを育てるっていう、そういうキャッチボール関係の中にすべてはあるからなんだよな。やっぱり私は「おもしろい映画がみたい」と思うから、だからやっぱり、私は「お客様」をやってたいんだ。 (‥中略‥)
僕に映画の観方を教えてくれた先達ってことになると、淀川長冶・双葉十三郎ともう一人、ショービジネスがらみで南部圭之助ってことになるんだけども、そういう“教養”で育っちゃった私としては、植草甚一っていう人にあんましピンと来なかったな。「言ってることは分かるような気もするけど、でも僕にはちょっと違うところもあるな」って。
やっぱり客には二種類あると思う。若い客を育てる大人の客と、若い人に影響を与える大人の客と。自分はやっぱり、若い客を育てる大人の客でありたいと、そういう風に思ってはいたな。
」(前掲書251〜252頁 解題=僕は映画の「お客様」だ より 無断引用しました)
俺、僕、私、自分、‥一人称の自在な往還文体の上手さにも舌を巻くが、何といっても、橋本治さんは、目の人だ。本当に見誤らない「目利き」だと思う。
恐れ入りました、としかいいようがない。