2ペンスの希望

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Yさん

Yさんが死んだ。
Yさんなどと書かずに、吉本隆明さんと書こう。
生前一度だけ私的に言葉を交わしたことがある。場所は西伊豆・土肥の海水浴場。先方は毎夏家族で避暑に出掛ける御馴染みのところ、当方は、社員旅行の最中だった。砂浜の俄か作りの舞台で、踊りか何かの催しをしていた。ひとけはまばら、ひょいと横を見ると海パン姿の吉本さんが座っていた。学生時代からの「試行」定期購読者だったので、もしやと思って声を掛けた。ご当人だった。丁度その頃『いま、吉本隆明二十五時』という連続講演と討論会の記録ビデオを請け負って製作中だった。不思議な符合・偶然に驚いてその話をしたりしてしばらく話した。彼が同じ海で溺れそうになるずっと前のことだ。痩せてもおらず太ってもおらず、骨ががっちりした人だった。
今日は、吉本さんが最後の頃に受けたインタビュー記事の談話を紹介する。

音楽も文学も、創作や鑑賞の環境がどんどん便利になっています。手元のボタン一つで「一級品」と呼ばれるものが手に入る。すると人間は「これを読まなきゃ おられない」といった衝動的な感覚が薄れていくことになります。せめてそうありたくないと思うなら、例えば紙と鉛筆とがあるならそこに何か、自分の手を 使って「あいうえお」でもいいから書いてみる。その「あいうえお」は確かに残ります。手を動かして詩を作る。歌ってみる。そういう根底を失わずにおれば、 何とかなるよってことは言えるでしょう。

 特に便利な世の中では、真の芸術とそれ以外との区別はできた方がいい。自分が心の中で手放せないものがはっきりすれば、わりと楽に区別できます。」
(「思想家・吉本隆明さん3=朝日新聞2011年3月27日掲載」を無断引用)

自分の手を動かして掴んだもの(だけ)を、心の中で手放すな」という主張は確かにその通りだ。かといって拙い字で「あいうえお」と書いただけの紙切れをみせられてもはた迷惑というものだろう。吉本さんは、自分の手になる「あいうえお」を手放さず出発点に据えながら、「一級品」の遙かさを思い知れ、と言いたかったのだと思う。
短絡は慎むべし。