2ペンスの希望

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映画館再々

映画館については、何度か書いてきた。古い本棚をひっくり返していると、ロランバルトが出てきた。【ロラン・バルト「映画館から出て」『第三の意味―映像と演劇と音楽と』みすず書房1984 沢崎浩平訳】書き写してみる。
映画館の闇は、都会の世界の粗暴さから身を守る避難場になりえ、観客の頭の背後の小さな穴からほとばしる円錐状のきらめく光は、われわれを不意にとらえて力づけてくれる光の井戸を銀幕に開く。いっしょにいるというこの種の共謀性、しかも面識がなく二度と会うはずもない人々――上映が終わり、狭い入り口からまぶしくて目まぐるしい動きのある街路へ突き飛ばされるように押し合いながら出てくるときでさえそうだ――との共謀性。
と、あった。そういえばその昔 唐十郎に「映画館は時代の迷子たちの溜まり場だ」という名セリフもあった。バルトの本には、こういうくだりもある。
映画はテレビの対極に位置している。前者(映画)は開かれ、匿名的で、人々の孤独と希望を迎えてくれ、後者(テレビ)は、〈家庭〉という枠組のために作られていて、平板で精彩を欠き、調理道具や広間の家具と区別がつかない。
拙管理人も、常々テレビは家具だと云い募ってきた。が、その説はここから拝借したのだったか、自前で考えたものなのか、今となっては定かではない。ただ、これだけはハッキリしている。同じ映像を使いながら、映画とテレビは水と油、全くの別物なのだ。バルトは〈家庭〉だと云ったが、JLGは〈官僚〉だと言っていたっけ。「テレビは生産の手段ではなく。ただ単に普及の手段でしかない。テレビの連中には、伝達すること以外のことはなにもできない」【「映画は死のうとしている、映画万歳!」JLDインタビュー】雑誌「ユリイカ」1989年12月総特集ヌーヴェル・ヴァーグ30年所収より】