2ペンスの希望

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モノボケ 帽子2

昨日に続いて千野帽子さんの『俳句いきなり入門』。
型破りな(という意味は、従来の凡百ナマヌルな入門書とはまるっきし異なる、という意味の)俳句入門書だが、昨今の映画のありようをも類推させてなかなか示唆的。刺激的で面白い。オススメだ。
第二章2には、俳句は「モノボケ」である、とある。その一節、お笑い芸人ピースの又吉直樹さんが俳人堀本裕樹さんと千野さんの鼎談でこう語っている。
又吉 モノボケにしてもこれ(手元のペットボトル)を例えば「東京タワー」と言ったのでは見たままですよね。そこで「親分、今月分のお水です」とボケたら、その世界では何かそういうのになってんのかなということやから、まだ広がっていると思うんですよ。
千野 今「今月分のお水です」の前に「親分」ってつけたでしょう。親分ということは、言ってる人は子分なんだと思う。
堀本 関係性をちらっ、と見せている。
千野 そうそう。どんな状況なんだろうと思いますよね。何だろうと。
堀本 裏に物語があって。
千野 そうそう、ストーリーがあるんです。
又吉 俳句もそうですね。
全部言わない、一部分だけ言う、残りは自分で決めずに、観客・読者にゆだねる。モノボケも俳句も、自己完結していない。開放されている。対話なのだ。

同じ章の又別の箇所。
俳句は一発芸、厳密に言えばモノボケだ。‥‥、これにたいして、同じ五七五でも川柳は「あるあるネタ」だ。みんなが理解できるものをめざそうとする。正確に言うと、「みんなが意味がわかるもの」を作ろうとする。つまり、川柳では「意味がわかる」ことがなにより大事なのにたいして、俳句では「よさがわかる」ことが大事で、「意味がわかる」の部分は二の次ということだ。だから、「意味がわかるものしか、よさがわからない」という人には俳句は無理なんです。
おもしろいかどうかよりも、とにかく意味がわかることが大事にされる「あるあるネタ」の着地点は、常識、共通理解にある。一方、俳句ではそもそも意味が全員に同じように伝わるとはかぎらない、というかそういうことはどちらかというと少ない。‥‥、
俳句では、その句がなにをおもしろいものとして呈示しているかについて、読み手のあいだで意見の相違が出る。そのおもしろさを感知する人としない人とに、読者を残酷に二分してしまう。

俳句映画と川柳映画、さてあなたはどちら派だろうか。
いうまでもないが、拙は断固 俳句映画派だ。
第二章2の最後のくだりはこうだ
未知のものに出会ったときに脳が一瞬困る状態を体験することで、新しい小説(美術・音楽)観が生まれてきた、自分がすでに知っているおもしろさのレパートリーのなかに分類できない俳句や川柳に出会ったとき、私(千野‥引用者注)が困りながら、おもしろがっている。美意識(良し悪しの基準)がいつも隅々まではっきり固定しているのは、なんだか退屈だ。脳を困らせてくれる句と出会うために、私は句会を開くのです。
成る程、
脳を困らせてくれる映画と出会うために、私は映画を見るのです。そう言い換えてみたい誘惑に駆られる。