田井さんの文章を紹介したら、早速オマエはどう考えるんだと問われた。
そこで今日は、観客論。
といっても「観客とは誰か」とか「観客とは何か」といった学者センセーの抽象論議ではない。そんなヒマはない。
田井さんは映画館主なので「観客」といっているが、「映画を見る人」「映画のお客さん」「映画ファン」「ユーザー」「利用者」「享受者」とリーチは広くとる。その上で、代表として「お客さん」を使う。何がしかのお金を支払ってくれる存在ということだ。
映画が映画館でしか見られなかった時代はとっくの昔に終わっている。「お客さん」の選択肢は格段に拡がった。映画以外の競合も増えた。一方で、「お客さん」の貪欲で我が侭な本質は変わらない。ますます怠惰で鋭くなっている。彼らは、与えられたメニューから選ぼうとするだけだ。既存の映画に不満を感じていても、新しい映画を求めるというより、映画に対する期待も希望を失って、黙って映画から離れていく。かくて、映画の周辺には、「縁者」や「信者」や「患者」ばかりがたむろする。血が澱む。不健康。
「縁者」や「信者」や「患者」ではない、まッさらな「お客さん」にどう出会っていくのか、
その回路を如何に作るのか、それを誰が担うのか、これがポイントだと思う。
彼らに「映画」を「誰」が「どう届ける」のか。もはや配給、卸問屋といった中間業者は
不要だと考える。
「まだ見ぬ観客とどう出会っていくのか」
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あたりにまで遡って検討してみる必要がありそうだ。
ハッキリ云えるのは、作り手たちの手元に、「作る」設計図と「見せる」設計図がともに準備されているのが強い、ということだ。「見せる」設計図については、もすこし具体的に書きたいが、今日は控える。(ベクトルを逆に映画の創世記をたどりなおすことがヒントになるかもしれない。)
いずれにしろ、作りっぱなしはいけない。なによりもったいない。
作り手による「一気通貫」これがキイワードだ。
この時にはもちろん「映画」の外側に広がる世界との「時間の奪い合い」も射程に入れておく必要があるが、これはまた別の話。