2ペンスの希望

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映画館論

ODSというのだそうな。
Other Digital Stuff. 
デジタルプロジェクターの導入で、音楽コンサートや演劇、スポーツの生中継などシネコンを中心に映画館で映画以外の商品を掛けるようになったことを指す言葉だ。落語や将棋・囲碁の対局プログラムまで組まれ、それなりの人気だそうだ。映画ファンには噴飯モノかもしれないが、館側にすれば、お客さえ呼べれば何だっていいのだ。入りの悪い映画の新作に汲汲とするよりよほど商売になるということだろう。
かくして、ますます映画館から映画が放逐されていく。それでなくとも昨今の映画館は、“同質圧力”に支配されているようで気持ちが悪い
とりわけドキュメンタリーの上映が増えて、扱う題材やテーマに興味や関心を抱く人々が映画館に集まるようになってそう感じることが多い。テーマが社会的関心を呼ぶものなら、館側も一定の集客が読める。あわよくば組織動員も可能だ。かくて映画館は、市民集会か勉強会の会場と化す。或いは、信仰を確かめ合う信者の会か。そこでは映画の出来不出来はなおざりにされる。
小ぶりな映画館では小ぶりな自主制作の劇映画でも掛かるようになった。多くは望めないが関係者・親戚縁者、友達のまた友達までかき集めればそれなりの数になる。かくして、映画館は親類の寄り合い・同窓会場・文化祭・学芸会の様相を呈する。いずれにしろ、映画館はどんどん同質性の高い場・空間になっていく。映画を見たい、映画を楽しみたいだけの、何でもない一映画ファンにとってはまったく居心地の悪いことだ。
見も知らぬ他人同士が、身銭を切ってわざわざ時間を遣り繰りし身体を運んで一堂に会し、暗闇の中、大画面大音響のスクリーンを注視する。映画が終わって館内が明るくなった時の、えもいわれぬこそばゆい幸福感。それはもはや望むべくもない過去の夢なのか。迷い子たちの溜まり場、無名無告の民の魂の慰安所は消失していくのみか。
先日、ある映画好きの先達がしみじみ語っているのを聞いた。
みんなが一緒に笑ったり、泣いたりする場所として映画館があったと考える。
みんながそろってもうひとつの人生を生きることが時代のしるしであった。
それが終わった。だから今私は映画を映画館で見ない、
と。
拙は、映画館至上主義者ではない。フィルム信奉者に与する者でもない。
しかし映画館で映画を見る楽しみが痩せ細っていくのを見るのはいかにも忍びない。