2ペンスの希望

映画言論活動中です

87−09 「宴会映画」

今号のキーワードは、「宴会映画」。きっかけは、森崎東監督へのロングインタビューだったようだ。「宴会のような映画をさながら宴会をやるようにつくっていく」というイメージだと説明している。
映画制作は様々に喩えられる。例えば「建築」。脚本(設計図)に基づいて、様々な専門職の職人が腕を振るってひとつの建物を作り上げる。例えば「祭り」。それぞれに持ち場持ち場を受け持ちながら、非日常をつくり上げて楽しむ。などなど。
で、「宴会(のような)映画」
時評では、小川紳介森崎東の新作が採り上げられ称揚されている。残念ながらともに未見なので、山根時評の妥当性については問わない。問えない。小川作については、「記録映画と劇映画の区別をふわりと踏み越えてしまう映画的な勢い」を称え、森崎作については、「古典的な文法を踏まえつつ、そこから逸脱している」点を評価している。共通するのは、自在な逸脱 何でもあり、無礼講、そして「勢い」という言葉だろうか。実際、時評には「勢い」という言葉が頻出する。「逸脱する勢いと華やかさ」「にぎにぎしい活気が満ち、集団のエネルギーが渦巻くなかで一人ひとりの個性が解き放たれ、晴れやかさが連続的に爆発し、あっという間に時間がたち、と、これはもう宴会以外のなにものでもあるまい」【註:青字部分は、山根時評からの引用箇所 以下も同様】
しかし、である。ここまで書かれると、本気で言ってるの、ヤケクソじゃないの、と疑わしくもなってくる。選ばれた言葉を読んでみても、皮ばっかりで中身のアンコが伝わらない。
こじんまりとお行儀よく纏まった映画に対する嫌悪が、ことさらにハチャメチャな作りの映画を持ち上げているようにも見えてくる。
別の映画に対しも「デタラメだからこそおもしろい」と書き「デタラメに全力で取り組み、破れかぶれを承知で突き進んでいく現場的心意気」と書いている。25年後の今読み返してみると、進むべき方向を見失って、映画の現場はきりきり舞い、既に末期症状が始まっていたのでは‥と疑いたくもなる。
宴会映画」があっても良かろうが、作り手たちや演者(縁者)が楽しむだけで、「観客」は置き去り、蚊帳の外というのでは楽しいはずはなかろうに
今日は教訓無し