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87−07 あとがない

今号の山根時評、テーマは娯楽映画。「サービス満点」「これでもかこれでもかの飾り立て」「女優たちが、あらんかぎりの力をふりしぼって熱演する。あられもなく裸をみせる。」その「必死さ」「切実さ」がかえって日本映画の「余裕のなさ」を露呈している、と指摘する。  いまや、あとがない。
いうまでもなく、エンターテインメントという語には、娯楽の意味よりも前にまず、もてなし、歓待という意味がある。」とチラリ教養も見せながら、「全部見せることが、もてなしになるだろうか。」と続ける。かつては真面目な真剣さと受け取られたものが、いつしか安っぽいパロディに成り下がる。そんな「追い込まれ、追い詰められた」娯楽映画の現在のありようを哀悼する。「エンタテインする心、饗応の心意気から、余りが生まれる。或いは、逆に、描写上の余剰が、もてなしとなる。かつてならこのことが、当然のこととしてすんなり成立したが、現在ではそうはいかなくなっている。」  もはや、あとがない。
【註:青字部分は、山根時評からの引用箇所 以下も同様】
精一杯、必死のパッチに拍手が沸くのは、スポーツの世界だ。
熱意や努力だけでは「芸」事の世界はわたれない。同情されての拍手ではたまらない。情けない。「余りがないということばかりが、ありありと見えてくる」ようでは、観客は切なすぎて心躍らせて楽しむことが出来ない。心静かに味わうこともかなわない。とりわけ、心ある観客にはそうだろう。  どうかんがえても、あとがない。
ということで、今日の教訓その8は、あとがなくして「芸」事なし
映画は必需品ではない。ぜいたく品だ。その思いは深い。だからこそ、余白を大切にしたい。水面を優美に泳ぐ水鳥たちが水面下では必死に水かきを動かしているとしても、だ。何度か書いてきたが、余裕・余剰・余白・余情のない表現は、見苦しい
時評には、「あとがない」のに「あてがない」日本の映画情況が滲み出ている。