2ペンスの希望

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87−03「窓としての映画」

この号のキイワードは、「窓としての映画」。 知られざる現実、或いは失われた現実を「手間ヒマかけて再現し、それを窓をとおして見せようとする映画」つまり「映画が窓としての役割を果たしている」映画を挙げ、それを批判する。現実の「再現」をいかにリアルに丁寧に並べて見せようとも、それ自体が映画的価値を保証するものではない、と山根さんは断言している。全く同感だ。
彼は「窓としての映画」に対して「生きものとしての映画」を対峙させる。
生きものとしての映画」う〜む、言いたいところは分からぬでもないが、いかにも伝わりにくい。そこで言葉を継ぐ。「映画的イメージの展開」とか「感性の映画的展開」とか。それでもやはり言葉足らず。ますます分かりにくくなるばかりだ。
                    【註:青字部分は、山根時評からの引用箇所】
丁度同時期、山根さんとの共著もある高名な映画評論家H先生も、「誘惑のエクリチュール」とか「何とかの記憶装置」とか「扇動装置」とか、何やら意味ありげだが今ひとつよく分からないタイトルの本を矢継ぎ早に出していた。この頃から、学者先生が高邁な西欧の文学理論を直輸入した(密輸入した?)映画の分析的「言説」(なんのこっちゃ!)なんてのが持てはやされはじめたことをうっすら思い出した。何冊か手にしてみたが、良く分からず早々に退散した記憶がある。
きっと偉い人・分かる人には分かるのだろう。それでも、
分かる人にしか分からない言葉はいただけない。胸も打たれない。醜い。
ということで、今日は教訓無し。パスだ。