2ペンスの希望

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カウンターカルチャー

先日紹介したS塾長から第二弾を頂戴した。
サブカルチャーではなくカウンターカルチャー復権を!という呼びかけだ。
確かに、昔は カウンターカルチャーと言う言葉があった。
それが今は、サブカルチャーと貶められている。
カウンターカルチャーという言葉を忘れた責任はこちら側にもあるとS塾長は指摘する。
S塾長からのメールを転記する。
私たちの青年時代にはカウンターカルチャーという言葉がありました。
しかし、経済資本と国家支配、及びメディアの肥大は、カウンターカルチャーさえ取り込み、今ではサブカルチャーなどという、まさに大衆文化、下位文化としておとしめてしまい、あたりまえとして多くの人たちが受容しています。
それは、私たちも同様おとしめられたと同時に、からめとられたのだと思います。
私たちのカウンターカルチャーへの認識は、ある意味で「安逸」であったのかもしれません。何かに対抗することで単純な二項対立を妄想し、私たち個々に巣食う邪悪さ、身勝手さ、権威主義、小市民性を撃とうとしなかったためです。
つまり、他者に依存し、他者を弾劾し、他者に責任を押し付けてしまうだけの無責任、
無自覚、無神経がカウンターなる概念をつぶしてしまったのではないだろうか。
なぜ私たちの内なる邪悪さ、傲慢さを撃とうとはしなかったのか。
自らの理想を、身近な仲間たちを醜悪な殺戮で正当化したテロルが、
究極カウンターなる本質をサブという言葉にいやしめてしまった。
そして、それは私たちだったし、私たちは共犯だといえるのです。
単純な善悪二元論では解決しない複雑さを内包していると考えます。
私たちはもう一度、カウンターカルチャーの基本にかえり、
自らの立ち位置から相対的視線で考えていかなければならないと思うのです。

必ずしも全面的に首肯するわけではないが、
置いてけ掘にした忘れ物をとりに行くのに、遅すぎることはない。それだけは確かだ。