2ペンスの希望

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“居合わせてもらう”

永らく記録映画のキャメラマンとして働いてきたYさんは、数年前から請われて老舗の映画大学で撮影技術の実技演習を担当している。彼の授業は、三脚を担いだままでの下肢屈伸体操から始まる。身に付いた知性の人だ。そんなYさんから届いたメール。
記録映画(&教育映画)もまた“説明”でなく、観る人に“居合わせてもらう姿勢”で取り組んだものです。
昔は 映画としてみせられるつくりの作品づくりが行われていた。その空気も技術もありました。
これには観る人の“心(≒感性+論理)”に響くことができる表現上の技術とその基になる“思想(いろいろな意味で)”がおぼろげながらにもスタッフ間で共有、あるいは“空気”として確かに存在していたからだと思っています。
映画は知識(or情報)を伝達するだけのものではない、という共通認識がありました。
翻って今、時代の空気は「すぐに役に立つ技術(情報)」を求めてしまう傾向が強すぎるように思います。
例年、期末の試験は下記の文章の「神話」を「映画」に置き換えて述べよ、という小論を課し、生徒たちに立ち止まって考えてもらおうとしていますが…さてはて。
  首尾一貫とした、まとまりのある世界像を
  持つことは、おそらく人間の脳にとって
  必要なことだろう。
  首尾一貫性と統一の欠如は
  しばしば不安と精神の分裂を生み出す。
  公平を期して言うなら、首尾一貫した
  まとまりを求める限りにおいては、
  神話による説明の方が科学的説明よりも
  有効な場合が多い。
        フランソワ・ジャコブ「可能世界と現実世界」【1994年6月みすず書房刊         田村俊秀・安田純一訳】より

映画による説明の方が科学的説明よりも有効―「一挙的理解」そうでなくちゃ映画にする(映画で見る)値打ちはない。そのとおり。
「映画的合点」「映画的堪能」が軽視されてはたまらない。
キイワードは、臨場、体感、共感、‥か。