2ペンスの希望

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やわでわや

スクリーンもあれば、モニター画面もある。スマホもある。
映画を見る環境は増えた。しかしそれは本当に良いことなのか。選択肢が増えることはそれほど良いことなのだろうか。観客・視聴者は増えたのか。むしろ逆ではないのか。観客は激減し監督が激増した。「作りたい」「作ろう」という人ばかり増えて、「見たい」「見よう」という人がいなくなった。見当たらない。
押し付けがましさは敬遠され、人は皆謙虚になった。といえば聞こえはいいが、オレは「作りたい」から「作る」けど、「見てくれなくても」別に構わない、「見てくれ」なんて押し付けないよ、ということなら、そこには何も起こらない。取り付く島も無い。映画は無数に近く「作られながら」観客は限りなくゼロに近い。
「知らせる」術もやわになった。結果どうなったか。映画の間口は格段に広がったのに、あんまり多すぎて、自分で選べなくなっている。極端に失敗を恐れる。どれを選べば損をしないですむのか、そればかり考えている。結果、そこらの世話焼きや嘘つき・詐欺師たちに頼ったあげくの上げ膳据え膳。目の前に並べられたカタログから選ぶだけだ。カタログの向こうに果てしない山脈や遙かな海が広がっていることなど知ったこっちゃない。目も向けない。洟も引っ掛けない。
多様になって、「やわ」になって、すべてが「わや」になるのでは、元も子もない。
泣くに泣けない、笑うに笑えない。