2ペンスの希望

映画言論活動中です

デジタルの功罪

デジタルの時代になって、メジャーもマイナーもなくなった。
有名人も無名人もみな横並び=フラット=平準化の海に漂うばかりだ。誰もが勝手気ままにブログったり、ツイッたり、ググッたりできる。(もっとも注目度には雲泥の差があるが‥)世界は開かれた。確かにそうだろう。しかし、世界は開かれているのに個々の人間自身は閉じようとしているようだ。開かれながら閉じつつある。
権威が消失したのはいいことだ。ただ、それが既知・近隣しか信じないのではいただけない。何のことかって?世の中の言論メディア・評論家の化けの皮が剥がれ、疎んじられるのは良いとしても、その反動で知り合い・友達・連れ、つまりは身内ばかりが重視される傾向のことだ。
映画の話をしよう。眼も当てられないほどひどくはない。そこそこはうまいが、人様にお見せするほどではない。身内・仲間うちで盛り上がってそれでおしまい。最近若い人の作る映画はそんな映画ばっかりだといえば言いすぎだろうか。
どれもこれもメジャーにはならない・なれない。で、日の当たらない道を「そこそこ」「こそこそ」歩くだけで消えていく。
「こそこそ」というのは、ネット社会の得意技のひとつだ。匿名性。隠れ蓑を被った透明人間。対岸の火事を高見の見物。洞ヶ峠を決め込んで知らぬ顔の半兵衛。都合の悪いことは指一本ですべてオミット、消去してリセットするだけ。
しかし、リセットでは何も残らない。反省も教訓もなければ蓄積もない。
何も残らなければ何も始まらない。
温故知新。過去に学ばなければ未来も無い。
映画を作るヒマがあるのなら、昔の映画を見てみることをお薦めする。
それこそデジタル時代。ちょっとネットを叩けば、古い映画が山のようにアップされていて、丸ごと自由に見られる時代なんだから。