2ペンスの希望

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困難な時代

今ほど映画づくりが困難になっている時代はない。
昔に比べて機材は安くなった。機能も性能も上った。けど、映画の地位も役割も社会的期待値も没落した。町外れ、路地裏、場末にひっそりと棲息する隠花植物みたいなもの。過去の栄光にすがって何とか生きているだけ。風前のともしび。なのに、メジャーと称する日本の映画界は、今年も邦画の興行成績が洋画を凌駕したと浮かれ、邦画大復活とはしゃいでいる。包装紙だけが派手でご立派な空箱。新作ラインナップには、テレビか漫画で当たった原作、ベストセラー小説の映画化がズラリと並ぶ。大半は何処かで見たような映画の焼きなおし。劣化コピー。毒にも薬にもならないウエハース映画、退行映画が、いけしゃあしゃあと大量生産される情況は止まらない。
張子の虎か消滅前の虚飾。
そんな中、世界の映画の先達たち、その達成・成果に敬意を払い、何か新しい映画を作らなければ、映画をつくる意味はないと真剣に考えれば考えるほど、映画が作りにくくなるのは誠実の証だ。
無意味なプラスワンを潔しとしない映画監督は、畢竟、吃音、失語症に陥らざるを得ないのだ。
意欲がないのではない。能力がないのでもない。お金がないことはその通りだが、なにより誠意がありすぎるのだ。何に対する誠意なのか?映画という神に対してだ。
笑うなかれ。映画より他に神はなし、で何が悪い。