「こだわり」は褒め言葉ではなく「どうでもいいような些細なことにこだわる・拘泥する」良くない言葉だ、よって、「こだわり」という言葉はそのようにしか使わない―――
二十年余りそう「こだわって」やってきた。しかし、それが大間違いだったことをつい最近知った。「こだわり」というのは、マイナスの要素が含まれた言葉ではないということを、用例を挙げて考証した国語学者の本を読んだ。『新明解国語辞典』の編纂者山田忠雄主幹の著作『私の語誌』の第2巻【1996年9月三省堂刊:もっとも編著者山田孝雄は同年2月に他界。遺志を継いで長男・明雄が出版】副題には「私のこだわり」とあった。
採り上げたのは当時の新聞用例を中心に380以上。山田孝雄は、そもそも「国語史的には語原の明かならぬ語である」と断った上で、「こだわる」の原義を「それだけを唯一・至上の目標として追求する。若しくは、それを手中から離すまいとする」とし、ときに「関心が一定の枠内に限られ、思考・選択の自由が妨げられる。対象についての思い入れが強く、その心情からなかなか脱却できない状態に在る」と書き、更に「優先的に、その事に関心を持つ。その物事の良さを見出し、深い奥行を極めたい、微妙な所を味わいたいと強く願う」意味が加わり「新用法」が生まれた、と説く。
こだわりという言葉は、必ずしもマイナスイメージの言葉というわけではなくニュートラルな言葉である、とした。その上で山田は、当時新用法の流行・蔓延に不快感を示していた文筆家たち(江口滋、丸谷才一、大岡信、俵万智、その他大勢)を徹底批判した。「本人がどのように思おうと勝手だが、それが事実に全く合致しない者を根拠にして立論するのは、砂上の楼閣とも空中の楼閣とも言うのだ。分かっちゃいない。出鱈目放題は止めてもらいたい」
半可通・知ったかぶりは恐ろしい。拙も丸谷大岡対談で読んで「こだわりの新用法批判」を二十年も信奉してきたくちだ。トホホ。
三日前、「言葉は時代を映す鏡だ」と書き、「生まれ育った時代を背負って現われる」と記したが、その通り。
無知も誤解も不見識も長く残る。その一方で、慧眼の士は必ずいる。
畏るべしプロ、畏るべき山田孝雄。
ちなみに、2012年1月に出た『新明解国語辞典』第7版にはこうある。
【こだわる】 1、他人から見ればどうでもいい(きっぱりわすれるべきだ)と考えられる ことにとらわれて気にし続ける。「自説(メンツ、目先の利害、枝葉末節)に こだわる」2、他人はどう評価しようが、その人にとっては意義のあることだ と考え、その物事に深い思い入れをする。「カボチャにこだわり続けた 画家/ 材料(鮮度・品質・本物の味にこだわる)〔2,はごく新しい用法〕
お見事!こういうのを芸と呼びたい。