ブログを読んだ知人から質問が来た。
「半生(はんなま)時代の不幸」ってどういうこと、よく解らん?ということだった。
以前こう書いたことがある。【2012年2月5日「映画は練り物」】
映画は、そもそもからナマものではない。バンドのライブや生身の演劇とは違う、れっきとした「加工品」乾物・干物の類いだ。誰かがどこかで、「新鮮なままパッケージされた缶詰だ」と書いていたのを目にしたことがある。もっと言うなら、よく練られた「練り物」だといいたいところだ。(全文を読んでみようという奇特な御仁は→
http://d.hatena.ne.jp/kobe-yama/20120205/1328455232
基本は変わっていない。
ただ、様々な表現物の中にあって映画は生まれた時代と社会を映す「鏡」の度合いが一段高いという思いが強くなった。もとより、すべての表現は時代を反映する。中でも映画は雑多な情報性を孕むポテンシャル(可能性)がハンパなく大きい表現物なのだ。
映画が娯楽の王様だった時代、流行も情報も知識もすべては映画から吸収した。そんな時代が確かにあった。ファッション、髪型、着こなしはもとより、気の利いた台詞回し、仕草、都市の情報、世界の風景は、スクリーンから目に飛び込んできた。それぞれの時代の空気、気分、匂いとともに。映画は生きの良さ・鮮度に満ちていた。
やがて、その座はTVに変わり、今はネットやSNSが最新最速の情報源になった。
映画は旧世紀の遺物、時代遅れ、場末の吹き溜まり、オールド・ファッション。
新作にも何やら既視感が付き纏う。「新鮮なままパッケージされた缶詰」=旧作を開封してみても時代に合わない代物もある。携帯もPCもない時代との落差。そんな些細なことではなく、世界観・価値観の変化も大きい。それでも、時代を超え社会を超えて普遍的な生命力で現代の我々に迫る旧作にはじめて出くわすこともある。
そんなこんなを、「半生時代の不幸」と括ってみたのだが、言葉足らず、消化不良だった。反省。 (まだ、残尿感がぬぐえないので、この項は、継続審議とする。)