2ペンスの希望

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家貧しくして‥‥

日本の映画は、とても困難な袋小路に入っているようだ。
このところずっと新作映画がなべて面白くなくって困っている。
腕が落ちた、とか、産業として成り立たなくなって若い才能が映画に集まらなくなった、「貧スレバ鈍スル」。そう考えてきた。
どれもこれも似たり寄ったり。図式的・記号的なぺらっぺら。無味乾燥な独り善がり。
カラカラに乾いて味もしゃしゃりもないか、水分過剰べちゃべちゃのお涙頂戴、 そんな手合いが多すぎる。そんな中、極々稀にだが、オヤっと思う映画の種、きらっと光る映画の蕾に出会うことがある。何とか新しい表現、少しでも多くの人に届く「表現」を生み出そうともがいているのを感じると頼もしい。表現と誠実に向き合う人間はいつの時代にも居るのだと思うと嬉しい。皆それぞれに悪戦苦闘しながら匍匐前進しようとしているのだろう。そう考えてみることにした。宗旨替え?そうかもしれない。ただし、
今のご時世、図式・記号を超える「次の一歩」は途轍もなく大きく難しいことは確かだ。
[と、ここまでは少し前の日のメモ。  以降は昨日のメモ。]
9.11.以降、或いは3.11.以降、若い世代(管理人想定では30代前半まで)には、
ドラマを描くこと、精緻にドラマを組み立て練り上げていくことに対する嫌悪=拒否=違和感が存在するのではないか。そんな気がしてきた。
それも、自分(たち)が生きる社会に対して何がしかの「責任」を果たそうとする意志・意欲が強ければ強い人ほど、この傾向が強い。そう感じる。
圧倒的でどうしようもない「現実」を前にすると、作り物のドラマ「表現」が馬鹿馬鹿しく見えてくるというのは、分からぬでもない
若い人はいつだって、若いがゆえに倫理的なものだ。たとえそれが経験の浅さや自信の無さに由来するものだとしても、人間的な美質のひとつだろう。心の底でそう思う。
臈長けた大人(!或いは老獪な大人?)になればなるほど乾いていく。ドライになる。「社会なんて知ったこっちゃない、社会がオレに何をしてくれた」と開き直って、「一人遊び」にふけるか、勝ち逃げを決め込む輩も出てくる。暢気な昔話にうつつを抜かしていれば時間はあっさり過ぎていく。
厄介なハードルはもう一つある。
表現活動は、あくまで個人幻想・個の営み、社会や経済や政治とは直接は交わらないものだという認識、これが結構根強い。よしんば一面の真実だとしても、一方ですべての「表現」は、共同作業である。とりわけ、メディアの時代の今、作ることは一見たやすくなったように見えるが、手渡すことについては、社会や経済や政治抜きにはますます成り立たなくなっている。「道と経済の合一」。(ダスキン創業者鈴木清一さんの言葉だ。以前にもこんなのを書いている。⇒http://d.hatena.ne.jp/kobe-yama/20120529/1338246288) 都合よく、勝手に分けて考えることは出来ない相談だ。
だからこそ、若い映画表現者たちは、表現も社会も政治も経済もひとつに捉え、考えていこうとしている。とても健全で誠実なことだ。
産業としての映画、娯楽・慰安としての映画が終わって、
思考の道具としての映画(或る種の刺激物・覚醒剤としての映画)の時代が始まろうとしている今、彼らの「道と経済の合一」のありように注目してみたい。
「家貧シクシテ孝子顕ル」 それならそれで有り難い、得難いことだ。
(今日はエイプリルフールではない。為念。)