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歴史の改竄 メディアの嘘

今日は、大逆事件100年にまつわる映画を作ってきた映画界の先達CTさん(ハンドルネームは「イメジィ」)の許可を貰って、転載する。長いが面白い。歴史書通信も是非。


メディアは常に未来志向である。そして、メディアは時として嘘をつく。
未来のためには、嘘も方便で許される。

歴史学というのは、あまり表に出ない地味な学問らしい。
100年前はどうだったか、とか 何があったか を調べるのはとても根気のいる仕事である。
「テレビ番組と著作権」という題で、北島万次さんという歴史学者が記事を書いている。
【歴史書通信No.176号 2008年2月25日】
http://www.hozokan.co.jp/rekikon/pdf/tu176.pdf
この記事の中に テレビで有名タレントが人の研究成果を自分の意見として発表するといういきさつが書かれている。テレビというメディアは常に今を取り扱う。
その中で歴史というものを取り上げるとき、人の研究成果を剽窃したり、歴史の事実というものをその時のライブな発言で覆すことができるということである。
文書と違って、証拠としては跡には残らないが、その影響力は非常に大きい。
この歴史書通信のせいか、歴史的事実の剽窃のために、長寿番組「その時歴史は動いた」はなくなったのかもしれない。100年以上前の歴史というものは 簡単に無視することができるし、また、勝手に変えることもできるらしい。

次は、歴史的事実の改竄についてである。
400年前に起こった東日本大震災の話。
9世紀の貞観津波(869)の話は日本三大実録に出てくる地震であるが、それとは別に慶長年間に大津波があったという。時は 1611年 相馬・宮城から三陸にかけて大津波が襲った。1911年からちょうど400前のこと。この津波は、慶長大津波といわれている。仙台藩伊達政宗の時代。そのとき、政宗徳川家康に、藩内で5000人が死亡、とくに 仙台南部の被害が大きかったと報告している。今回の津波被害でも仙台南部の名取地区や相馬地域の被害が大きかった。
これに基づいて、理科年表には 仙台南部の地名などが記されていたのだが、
1980年頃理科年表が書き換えられ、その地名が削除された。その根拠となった論文では、仙台南部の被害はわずか数十人になってしまった。
大体「駿府記」という歴史書には5000人が死んだと書いているのにこれを50人と読むのはどういうわけか?
このために、1611年の慶長大津波の被害エリアが宮城南部から 三陸中心に書き換えられてしまった。
当時の伊達政宗の領地は 南は相馬からさらにその南、福島の海岸部まで及んでいた。被害エリアで仙台南部がなぜ矮小化されたか?
それは謎であるが、歴史学者伊達政宗が5000人といっているというのを気象学者が勝手にこれは50人の間違いだといってしまうことには、なにか政治的な意図を感じてしまう。
理科年表まで変えてしまうとは 気象庁にも責任がある
【「歴史としての東日本大震災ー口碑伝承をおろそかにするなかれ」岩本由輝編 
刀水書房 2013】
この慶長大津波で興味深いのは、上記の本によれば、スペイン船の船長のスカイノという人が、伊達政宗の許可をえて、三陸の海の測量をしていたときにこの大地震に遭遇し、村人たちがてんでに山に逃げている姿を目撃していることだ。この記録はスペイン本国にちゃんと保存されている。
また、869年の貞観地震で海底に沈んでしまった鼻節神社の海底調査の話もある。
とても、面白いのだが、なぜ、取り上げないのだろう。
地震で沈んだ島には他にも、福井湾の冠島、柿本人麿が殺された場所とされる石見益田の鴨島などもある。
事実としては興味深い。 お断り:文中一部誤字等を改めたり段落を変えたりしました。