2ペンスの希望

映画言論活動中です

「道具は道具」

昨日記録媒体の変遷について書いたら、今日読み始めた本に「デジタル・ジレンマ」という言葉が出てきた。藤谷治さんの『こうして書いていく』【大修館書店2013年11月 刊】冒頭「文学と地面―まえがきにかえて」の一節。
映像なり文書なりを、デジタルなデータとして保存するのは、結局はアナログな保管よりも厄介で高くつく、というジレンマの由である。
そもそもは、アメリカの映画芸術科学アカデミー(かのアカデミー賞の主催団体だ)が言い出したことのようだが、本当にそうなのか、俄かには判断しかねる。確かにデジタル技術の歴史は浅い。だから当てにならないという主張は如何なものか。急速な進化・コストダウンの加速化は必至だろうし、何より、フィルムだって登場直後は百年以上も持つことを誰が予想し保証しえただろうか。長期保存の安定性・安全性についても、コストについても、百年以上の歴史を持つ成熟技術であるフィルムと、たかだか四半世紀の過度的・成長期的デジタルメディアとでは、較べることそのものに無理があるように思う。
ということで、デジタル・ジレンマには、今ひとつ納得できない。
もとより、フィルムの質感は嫌いではないし、映写機のたたずまいは魅力的だ。しかし、フィルム至上主義には与したくない気分だ。昔は大切にするが、守旧派ではない
藤谷さんも、先に引用したくだりのすぐあとに、「文学の前に道具は道具でしかない。」と書いている。どっちでもええやん、ということだろう。大事なことはもっと他にあるやん、ということでもあろう。
さて、この藤谷治さん1963年生まれで、日大藝術学部映画学科卒業だと知った。どこかで映画を志していたのかもしれない。今は、本のセレクトショップ「フィクショネス」を経営するかたわら小説などを書いている「二足の草鞋」作家のようだ。(但し、つい最近、書店は閉店したと聞いた。)藤谷さんの本は初めて読む。
『こうして書いていく』目次を眺めながら、パラパラ拾い読みし始めて、ふと思いついた。暫くこの本を引用しながら、ブログを綴ってみよう、と。
というのも、文学⇒映画に置き換えたら、そのまま通用する(共感する)文章が幾つか目に付いたからだ。 「お盆仕様の手抜きバージョン」で楽をしたいという裏事情もある。
ということで、明日から暫くは『こうして書いていく』