伊藤さんの本『記憶する体』では、吃音の当事者数名でおしゃべりをしていたときのエピソードも面白かった。
「もし目の前に、これを飲んだら吃音が治るという薬があったら飲む?」という問いかけの答えは、全員が「NO」だった、という話。
ああ、彼らにとってはきっと「吃音者であること」がアイデンティティになっているのだ。吃音を肯定的に捉えていて、「どもることも含めて自分」という意識があるのだ、そんなふうに考えてみることも可能かもしれません。でも私(伊藤)は、これに関してはもう少し丁寧な言い方ができるのではないか、と思っています。
重要なのは、吃音を含め何らかの障害を持った人間である、ということではないのではないか。そうではなく、そのような障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫をつみかさね、その体を少しでも自分にとって居心地のいいものにしようと格闘してきた、その長い時間の蓄積こそ、その人の体を、唯一無二の代えのきかない体にしているのではないか。つまり、○○であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごした「時間」こそがその人の身体的アイデンティティを作るのではないか。そう思うのです。(太字引用者)
「時間」=積み重ねてきた「したこと」の厚みと重み。
不意に、何十年も前に読んだ丸山真男さんの岩波新書『日本の思想』を思い出した。【1961 岩波新書C39(青版)】
第Ⅳ章「である」ことと「する」こと。「である」社会と「である」道徳、「権利の上にねむる者」、「する」組織の社会的擡頭、「する」価値と「である」価値との倒錯、といった見出し(小項目)が並んでいた。
「する」こと「してきた」ことの堆積・体積を踏まえて今があり、明日がある。
(この項、まだまだ 続けます)