2ペンスの希望

映画言論活動中です

「うるせえな空は才能で青いのかよ」

表題は、最果タヒのエッセイ集『神様の友達の友達の友達はぼく』【2021.11.30 筑摩書房 刊】にある一節だ。(最果さんのことは調べてみて。当管理人は、谷川俊太郎に次いで詩人専業でやっていけそうな売文業者だと買っている。一筋縄ではいかない捻くれ者・曲者。)

表紙は見ての通り。凝っている。本のつくりも細部までおろそかにせずこだわっている。本文フォントが「カッコ」内で変わりやや左右に偏っているとか、ページ表記がスタンプみたいだとか、前段落末尾と同じ場所から次段落が始まるレイアウト、とかとか。縦書き本文が突如横書きになったり、早稲田大学国際教養学部2020年度一般入試問題に採用された自分の「現代文」が丸ごと引用されていたり、その問題を自分で解いて、河合・代ゼミ・東進の予備校の回答と突き合わせてみたり、といった趣向も‥‥

で、くだんの

うるせえな空は才能で青いのかよ

筑摩書房のPR誌『ちくま』に書いたエッセイ「空が青いですね」に出てくる。

最果さんは書く。途方に暮れるほど心動かされた体験・感動に出会ったとき、それを「才能」なんて言葉で済ますな、と。

人はどうして「才能」なんて言葉を使うのだろう、と思う。才能という独立したものはないし、便宜上才能と呼ぶしかないものもあるが、‥(中略)‥なかの分からなさを「才能」と呼ぶことで、決着をつけられたと錯覚する。私は、才能なんてこの世にないと思うほうが美しく見えるもの、美しく聞こえるもの、当たり前のように増えると思います。実際には才能もどこかにあるかもしれず、しかしそれが孤立して人から逸れてあるわけではないし、そこに対する物語性が苦手なのでしょう。人は他者と向かい合うとき、相手も人である、ということに戸惑って、それなのに「同じ」でないことに混乱する。そうしてだから「好き」になるのだと思うのですが、近づく話に「好き」が転化していくのは不思議ですね。遠いからこそ「好き」なのに。

彼女自身のTwitterの投稿にはこうある。

才能云々の話が好きだったのは17歳ぐらいまででそれからはこういう類の話には「うるせえな空は才能で青いのかよ」と思うようになった。

極上の啖呵だ と思った。五 八 六 破調の俳句としても読めるな とも思った。