2ペンスの希望

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ドラマとドキュメンタリー

ごくごくまれにだが、いいフレーズをおもいついたなぁ と独り悦に入ることがある。
『ドラマは夢見るために見、ドキュメンタリーは目覚めるために見る』
数年前に、或る企画書の中に書いたフレーズである。
いい歳をして、ナルちゃん(?!)だね と笑わないで欲しい。

商売柄、ドラマとドキュメンタリーについては長く考えてきた(つもり)。
ドラマの世界の人たちは、ドキュメンタリーなんて事実をそのまま記録しているだけじゃないか、と蔑む。
ドキュメンタリーの人はドラマなんて作り物じゃないか、真実じゃない、と貶める。
そんな表層的な捉え方でいいの、雑駁でレベル低すぎじゃない、ずっとそう思ってきた。
どちらも、表現=腕がモノを言う作り物、そんなこと当たり前なのに。

もうひとつ、あるところに書いた文を掲げてみたい。
少々長くなるけど、お付き合い戴けると有り難い。

『ドラマはドキュメンタリーであり、
ドキュメンタリーはフィクションであるということ』

2004年冬 劇映画のシナリオを書き、プロデュースを手掛けた。
『二人日和(原題:Turn over 天使は自転車に乗って)』である。
作り手の一員として、思い入れ深いシーンはいくつもあるが、ラッシュ試写からずっと忘れられないシーンにこんな場面がある。見舞いに訪れた昔の女友達が病室を引き上げた後、やつれた自分の姿に疲れ、病院の配膳トレイをぶちまけて、女優・藤村志保さんが「もう誰とも会いとうない…」と我がままをいう場面。付き添っている夫役の栗塚旭さんが、無言で散らばった食器を戻していく。その時、指先に付いたご飯粒を口元に運び、舐めて取るカットが写っていた。ご飯粒を舐めることは台本には指定されていない。栗塚さんは、現場で「しまった、このカットはNGだ」と思ったそうだ。だが、そのカットは本編に残され、私にとっては忘れられないシーンとなった。
死の淵にある妻と、生の日常の中にいる夫との、たくまざる「交情」越え得ない「距離」、言葉にしてしまえばそんなことになるのだろうが、そのシーンを見るたびに、なんともいえぬ感情が込み上げてくる。
シナリオでは、ここまでは滅多に書けるものではない。仮にト書きに「散乱した食器を片付けながら指の飯粒を口に運ぶ」と書かれていたとしたら、これほどに印象的なシーンになったかどうか、疑問だ。
撮影の現場で、指に付いた飯粒を思わず口に運んだのは、役者栗塚旭でありながら、役者栗塚旭ではなかった。昭和に生まれ育った人々、物が少なく、食べ物・とりわけお米を粗末にしないようにと教えられてきた人々の身に付いた自然の振る舞い・たしなみだと感じた。

ドラマには通常、練り上げられたシナリオが存在する。しかし、スタジオが使えないロケセットでの貧乏撮影の現場では、
その日の天候、日の陰りや風によって左右される。予算の関係で調達できなかった小道具・大道具、特殊効果など数えだしたらきりがない。与えられた現実と条件の中で、撮影は進む。現場では、シナリオを画にしていくことを越えたダイナミックスとブレーキが働く。鈴木清順の唯一の名作(だと私は思ってる)『殺しの烙印』永遠のナンバーツーの殺し屋・宍戸錠が狙撃に失敗した時の台詞ではないが、「神様みたいにかるいものが、銃の先っぽに止まったんだ。それだけだ」(シナリオは大和屋竺)。現場にはいつも「神様みたいなもの」が潜んでいる。そう思う。その意味で、ドラマもまた優れてドキュメンタリーなのである。

 一方で、ドキュメンタリーが真実である、という信仰はいまだに根深い。しかし、ほんのちょっと考えてみれば判る筈だ。TVのニュース画像だって何だって、すべての映像は、切り取られ、編集された映像であり、それ以前に、どんな被写体を選び、何に眼を向けるのかを含め、すべては作為されたものである。とするなら、ドキュメンタリーが嘘をつかないなどということは、ありえない。

 実感に即して言えば、制作の現場におけるドラマとドキュメンタリーの違いといえば、ドラマには、一応計算された台本があり、役者がいる、ということになる。しかし、これとても、台本が見取り図・設計図であり、役者を登場人物と置き換えるなら、どんなドキュメンタリーにも設計図は必須だし、登場人物(被写体)が存在する。とするなら、結局は程度の差ということになる。すべては《表現》だ、というわけだ。虚実皮膜。(虚実浸透膜?)
だからこそなのかどうか、やっと六十歳を迎えようとする今、《映画》がいよいよ面白くなってきた。

‥‥‥転載は以上。 きょうはここまで。