2ペンスの希望

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ものさし 不要?

昨日に続いて“週刊読書人”ウエブから。
『日本シナリオ名作選』をめぐっての座談会。
【“週刊読書人”2016年6月3日 第3142号】
荒井晴彦1947年生まれ、丸山昇一1948年生まれ、西岡琢也1956年生まれ、向井康介1977年生まれ。四人とも撮影所が機能しなくなってから映画界入りした面々。
荒井:「名作選のシナリオが書かれた時代の映画と、今の映画は別物。若い人たちは、自分たちはまったく関係ないところにいる、そう思っているんじゃない。だから『名作選』二一本なんて読んでも仕方がない」と嘯く。
丸山:「無手勝流でやり始めて、プロになってオーソドキシーを読んだ。定石を踏まえたドラマの作り方や劇の運び方、起承転結のあり方、そうしたエッセンスが全部出ていて、多くを学ぶことができた。」と反論、
西岡:「最初は変化球で勝負していたピッチャーが、直球を覚える。変化球だけしか投げられなかったのが、直球を覚えたら変化球もさらによくなる。だけど今は、直球を学ばない。変化球ばかりを使う。投げ方すら知らないのに、ボールを投げている。物事には基本がある。」と主張。
向井:「自分世代まではかろうじて過去につながるが、2004年以降に出てきた世代とはブロックバスター世代の自分すら「断絶」を感じる」とフォロー。
今や、アメリカンニューシネマや日活ロマンポルノが「古典」として語られる時代。1920年代サイレント時代から30年代〜50年代にかけての、かつての名作映画「折り目正しい定石」シナリオは過去のまた過去・大過去。 霧のかなたに姿も見えない。
枷、綾、伏線、回想、‥‥、お手本になりそうなのがゴロゴロしてるのに、
もったいない。

まず、丁寧に人間関係とその間の感情の揺れ動きを描け。その上で、壊したければ
壊せばいい。基礎を理解していないと、壊すこともできない。
」そう語る西岡の言葉と、
どんな現場にも耐えられる脚本にするためには、一稿二稿じゃ絶対にできない。事前の鬩ぎ合いがないと不可能。」「あえて初歩的なことを言わせてもらうと、映画って劇だから、物語るわけですよね。物語るためには技術や芸がいる。それらを総動員して、腐心の末に脚本を書く。でもお客さんは、大概は役者を目当てに映画館に行く。それは昔も今も変わらない。スターと言われている人たちはお客さんが呼べる。だから製作側も、その人たちをなんとかスクリーンに乗せて、しかも光り輝くようなヒーロー・ヒロインにしたいと思う。ただ、お客さんを呼ぶためには、どうしたって脚本がないと駄目なんですよ。脚本自体がなくなることは絶対にないと、僕は思う。しかし脚本の作り方が、今は僕等の知っている作り方ではなくなった。未知の分野になってしまった。でもその時にも、必ず指針が必要となってくるはずです。」という丸山の言葉が印象に残った。
芸も能もなしに右顧左眄・右往左往するばかりの年長さんは、レッドカード。