2ペンスの希望

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カメラは銃

カメラは銃である。
カメラを構える姿は、狙撃手のそれに似ている。
撮影開始の合図は、シュートshootだし、撮影された一つながりの映像はショットshot。言うまでもないが、shotもshootも銃による射撃の意味を持つ、撃つことである。文字通りピストルやライフルのような形をしたカメラも過去たくさん作られてきた。
記録映画の世界では、カメラの持つ加害性について、昔から言われてきた。見られたくないモノ、知られたくないコトを暴き出すカメラ。とりわけ、ドキュメンタリーの現場では、切っ先鋭く斬り込む事件性を求められることがままある。問題をはらむ対象・現場にカメラを向けるだけでなく、カメラを向けることで問題を掘り起こし、新たな磁場を作り出す。カメラが空間を変容させるというわけだ。安全無害であるはずがない。やばい隠し撮りも生れる。
一方で、その存在や気配を消して、一切無になろうと志向するカメラもある。撮影の現場では、無いものとして振舞う。無味無臭。透明人間、空気のような存在としてのカメラ。そんなあり方だ。ひっそりと見守るカメラ。この場合には、対象との信頼性・関係性が重大となる。
いずれにしろ、スタイルは様々だ。どちらが正解、良い悪いというわけではない。騒々しくスキャンダラス、センセーショナルなあおりもあれば、気がついたらカミソリで袖の皮一枚すっと切られていたといった静かな鋭さもある。
いずれの場合にも、眼力腕力、それに胆力がものをいう。それともうひとつ、ずうずうしさ・厚かましさとは対極の謙虚さ。これが無ければ、人の心はうてない。