2ペンスの希望

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肩書き

以前に読んだ山田宏一さんのインタビュー本『映画とは何か』を引っ張り出して読み直している。【1988年1月草思社刊】羽田澄子さんにインタビューしている回にこんなくだりを見つけた。
羽田「‥私は、肩書きを書けと言われると、いろいろ考えて、いまのところは、記録映画作家、ということにしたんです。‥(中略)‥。外国では、ただ映画作家というか、映像作家というか、そういう呼び名もあるらしいですね。」
山田「フィルムメーカー、でしょうか。フランス語にはシネアストという言葉もあります。
劇映画、記録映画を問わず、映画をつくる人をさす言葉なのだと思います。」

羽田「映画監督と呼ばれたり記録映画監督とか言われたりするんですけど、なんか「監督」というのはちょっと違うとおもうんですね。」
                      【1986年「キネマ旬報」第944・947号初出】
「映画をドキュメンタリーと劇映画に分かつ必要はない」という土本典昭さんの発言に二人ともが同意を示しながらのやりとりだ。対談は‥劇とドキュメンタリーに本質的な差異はない、ジャンル別よりむしろ、短編と長編という長さだけの分類の方が好ましい‥‥と続くが、今日は、呼称問題に絞ってみる。
対談から、25年が過ぎた。
今、当の羽田澄子さんはご自身のプロダクション「自由工房」の公式ホームページで「演出家」と表記したり、「映画監督」と表記している。ここでは、その変更について云々したい訳ではない。拙管理人自身、映画の仕事を四十年続けてきて、「監督」を始め、「演出家」「ディレクター」或いは短く「D」など様々に呼ばれてきた。職能の幅が膨らむにつれて、「プロデューサー」も経験し、企画マンもやるようになって、映像プランナーや映像クリエーターとカタカナ呼称を頂戴したりもした。正直どれにもお尻をむずむずさせながら過ごしてきた。つまりは本人の自覚と覚悟が足りなかっただけなのだが‥、往生際が悪かった。歳を食って厚かましくも鈍くもなった今では、言われるままにハイハイと従っている。使っている名詞の肩書きは、「映像/企画 構成」。何やら分かったようで分からない呼称でお茶を濁している。当人としては、映画についてのよろず引き受け人、要するに「何でも屋」のつもりでいる。
ことほど左様に、呼称問題は悩ましい。周囲からはそんなこと全然気にしちゃいないよ、単なる自意識過剰じゃないの、と言われてしまいそうだが、当人にとってのアイデンティティはなかなかに面倒くさく、ややこしいのだ。
そこで、いっそ「映画人」という呼称でひと括りしてみてはどうだ!と提案したい。もちろん「映画人=業界人」といったニュアンスではさらさらない。原始人とか宇宙人といった大雑把な括りの採用だ。作っている人も、見るだけの人も、見せる人も、心から映画が好きなら(映画の毒が回っているなら)すべからく「映画人」でいいじゃないか、そう思ってしまうのだ。
外野からは、そんなエエ加減な、とヤジが飛んできそうだが‥‥。
適切な呼称、誰か考えてくれないかなあ。