2ペンスの希望

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「さようならD」再論

創刊された雑誌neoneoの特集「さようならドキュメンタリー」特集について再論する。
殆どの論者が、「現実」「事実」「実在」「一回性」「関係性」「時間の封じ込め」といった辺りを行ったり来たりする中、畠山容平さんの「始める時に、終わりが見えていないもの」と春田実さんの「私は娯楽だと思っている。自分もふくめた外の世界を勝手にのぞくのだから、娯楽いがいの何物でもないのである。」「娯楽なのだから観客を想定すべきで、(登場人物に対して誠意はあっても)観客に対して誠意のない作品は駄作である」といった発言が印象に残った。ご両人とも未知の方だ。〈印象に残った〉とは、いかにもエラソーないい方だが、何本かドキュメンタリーに携わってきた拙管理人の、実作者の端くれとしてとしての実感に則して言うならこうなる、ということだ。他は〈外野〉か〈やつし(正面戦回避) 〉ばっかしだった。
ドキュメンタリーを始める時はいつも、初めての海を沖合いに向かって泳ぎだすような武者震い(というか不安というか悪寒というか)を感じる。もっとも、劇映画でも違う種類の武者震いはあるのだが‥。
実作者として、もひとつ。請負仕事が長かったせいか、誰が見るのか、誰に見せたいのか、を気にする。すんなりと、オレが作りたいものを見よ、という訳にはいかないのだ。因果といえば因果、難儀といえば難儀だ。しかし昨今、誰に見せたいのか分からない、作りたいから作ったとしか思えない「無邪気」な映画が多すぎるように思う。