2ペンスの希望

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字で考える訓練

neoneoというドキュメンタリー専門の雑誌がある。
不定期刊だが創刊号から読んでいる。昨年末にでた6号には「ドキュメンタリーのつくりかた」という特集が載っている。冒頭にあったのは「図解!チャート式 ドキュメンタリーのつくりかた〜あなたに向くのはこんな道〜」。 冗談じゃない。 曲りなりに50年余り、ドキュメンタリーを見たり作ったりしてきたすれっからしにすれば、噴飯もの、よせやいと鼻白んだ。けど、ちょっと待てよと考え直した。
この雑誌を手にする今の若い衆は昔の若者とは違う。保守的で多忙だ。一回の失敗も許されない、そう感じてたじろぎおおむね臆病でもある。映画やドキュメンタリーについて身近に相談する相手も居ない。そう考えると、このくらい易しい(優しいではない!)ウエハースもむべなるかな、已むを得ぬ苦肉苦心の策なんだと思い直し、我慢して読んだ。
前半の「作り手」たちの文は不作、正直かんばしくなかった。それでも後半、公開や上映、配給宣伝について書かれたものには、知らないことも書いてあって、へーっと思った。少し新しい時代を感じた。備忘録的に幾つか紹介してみる。
ドキュメンタリーにおける構成作家。ぜひものではない。いてもいいし、いなくてもいい。むしろ昨今では「台本を用意していない」はホメ言葉なので、悪役に近い。
そう書き出す若木康輔さんは、TV等の構成作家でneoneo編集室の一員らしい。
彼の結論部分。
現在、インディペンデントでドキュメンタリー映画を製作する人の少なからずには、ますます台本=悪役のイメージが強まる話かと思う。しかし、百歩譲ってスタッフ内覧の覚書でも粗筋でもいい、 取材前に自分たちなりの論理を活字にし、なぜその対象にカメラをむけるのか熟考しておいて損は一つもない。予断が現実に壊されると、時に望んでいる以上のダイナミズムが生まれるものだ。この初手を飛ばして、動機が曖昧なまま被写体に「寄り添う」撮影を続け、溜まった素材を前に悩んで幾年月。それで赤貧にあえぐ若い人が、デジタル以降めっきり増えた。 字で考える訓練もしませんか。
けっこう生産的な提案です。

一スジ、二ヌケ、三ドウサ 構成→映像→被写体、
映画が変わっても、映画史が書き換えられても、この金科玉条は変わらない。そう思う。