2ペンスの希望

映画言論活動中です

批評は‥

数日前に、ブログの読者から「アナタはどうして個々の映画についての批評・論評をしないのか」と訊かれた。ブログを始める時に、個別の映画評は一切書かない、時代と情況のみを書く、と決めた。個々の映画の良し悪しは、巷にゴマンと溢れている。ネットを叩けば、素朴な感想文・印象批評から、一見緻密な分析を装いながらその実・中身は知識のひけらかしといった似非批評までいやと言うほど出てくる。だから誰かに任せておけばいい、だから個別の映画評は書かない、と答えた。が、得心してもらえなかった。
彼は、批評の衰弱が映画の力を弱めている、と主張する。まったくそのとおり。正論だ。作ること、観ることを鍛えていくのは旺盛な批評力以外ではない。作ること、見ること、批評すること、この三位一体が崩れていることは、最大の不幸だと思う。
すべての表現物は世にさらされたかぎり、どんな形の批評をも受け入れられるべきものだ。観た映画について語ることは、身銭をきって時間を費やして映画を観た者の権利であり、義務でもあろう。拙管理人も若い頃から、「人の映画を観たら、何がしかの感想・コメントを述べるのは最低限の礼儀であり、ルール。映画を観て何も云わない、無視・無言であるのは、作り手にとって失礼なことなんだよ。」と教えられてやってきた。何とか言葉にして返そうと心掛けてきたつもりだ。しかし、こうも考えるのだ。
すくなくとも、映画を何がしかのなりわいとする者が、個々の映画の良し悪しを(公的に)語るときは、オーバーに言えば刺し違えて自らも死ぬ覚悟、命を差し出す真剣さ周到さが必要ではないのか。今のプロの映画評論が徹底的に駄目なのは作り手や観客に比べて、この「命がけ」の真摯さが足りないことだ。
たとえはマズイが、エサをあさりに里に出て農作物を荒らす野生動物(いのししや鹿や熊)彼らは、死ぬ気で里に降りてくる。果たして、人間が彼らの命がけに向き合うだけの「命」を賭けているかどうか、だ。なまじモノづくりの端くれとして作り手の思惑・身上・計算などが多少なりとも分ると彼らに拮抗するには、それなりの深さがないと届かないと思ってしまう。映画を作っている連中の中には、褒められたいが、批判はされたくない、仲間内での褒めあいは達者だが、外野からの批判には耳をふさぐ内弁慶も少なからずいる。こう書くと「だからこそマットーな批評活動が不可欠なのだ」と先の読者質問子の追い討ちが聞こえてきそうだが‥
批評はボクシングだ。一発の必殺パンチでもいいし、じわじわ効いてくるボディブロー、どちらでもいいが、相手の息の根を止めるだけの力がこもっていなければいけない。同じリングに立とうとしているのに、「ド素人が‥何を言う」「わかっちゃいない」なぞと門前払いで逃げられたり、無視されたのではかなわない。
(もちろん褒めるに足る映画があればそれに越したことはないのだが、昨今の日本映画は99パーセント駄目な映画なので‥相手を倒したいとばかり思ってしまう。悲しくて悲しくてとてもやりきれない。)

誤解しないで欲しいのだが、批評には責任がともなうべきだ、素朴な感想・無責任な印象批評は駄目で、緻密な分析が良い、といっているのではない。むしろ、まったく逆。
経験則で云えば、素朴な印象批評が的を射ていることの方がずっと多い。映画の急所を言い当てている。言葉を弄して結局何が言いたいのかよく分からんインテリ先生の駄文よりはるかに応える。そんなものだ。
批評不在は、不幸で不毛な時代の反映だ。けど、嘆き憤るだけでは何も始まらない。
時代と情況を変えるための営為、このブログもそのひとつであるたいと願っている。