2ペンスの希望

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見る力

あと十年か二十年もすれば、映画は作る人ばっかりで見る人はいなくなるんじゃないか、そんな思いに駆られる。 作る人はほっといても出てくる。(もっともそれはそれで問題アリなのだが)今日は映画を見る側の話。
拙管理人が育った時代は、映画は映画館で見るしかなかった。十代から二十代にかけて、何軒もはしごして見た。週末にはオールナイトに出かけて本数を稼いだ。数見る中で、映画を見る力が鍛えられた。そう思っている。美味しい物をちょこっとだけ選んで食べるのではなく、目にした物は手当たり次第何でも喰った。不味い物も時には吐きそうな物もあった。そんな中で、胃袋が大きくなり咀嚼力も付き、味覚も育った。おぼろにだが「主題」「物語(ストーリー)」とは異なる「映画的官能・醍醐味」も理解出来るようになってきて今に至る。
それから、時代は変わった。
ビデオテープが登場し、レーザーディスク、DVD、ブルーレイへと変わる中で、映画を見る環境は様変わりした。(いまだに映画館以外での映画視聴を認めない硬派もいるが、拙は採らない。軟派だ。)多々ご意見はあろうが、映画を個人が所有する時代、望めば多様に映画を見ることが可能になった。選択肢が拡がり見易くなった。なのに、見る人は減った。映画以外の刺激物が増えたせいも大きいだろう。時間の流れが速くなってヒマとかムダとかがゆるされなくなってきたという事情もあろう。もっと見ればいいのに、と思うのに、映画は隅っこに追いやられた感がある。
これは映画の学校で教える何人かの先生から聞いた話だが、
これだけ映画の学校が増え、映画を学ぶ若い人が増えたのに、日常的に映画を見る習慣を持つ学生さんは今殆ど居ないのだそうだ。たまに居ても、研究テーマに選んだ作家の映画だけをつまみぐい、つまり、点と線での映画視聴が関の山だという。世評に高い名湯に浸るか、知られざる辺鄙な秘湯めぐり。それが悪いわけではない。しかし、毎日浴びるように通うご近所の銭湯通いとは自ずと異なる。結果、見る力はや痩せていく。
見易くなったら見られなくなった。
フツーの若い人にとって、映画は必修科目ではなく選択科目、それもかろうじて端っこにぶら下がっているだけの‥僻みっぽくいえばそんな感じだ。悲しい。情けない。というより、もったいない。映画を見ることの面白さ(作ることの面白さではない!)を次の世代をどう伝えていくのか、見る力をどう膨らませていくのか。とりあえず思いつきの処方箋を書いてみる。
1)新作偏重をやめること:レンタルショップに行ったら、新作棚を漁る合間に、旧作(戦前から1970年代辺りまでの映画)にも手を伸ばしてみること。
2)点と線から始めてもいいが、面で見るよう心がけること:同時代にどんな映画が作られていたのか、訪ね歩いてみることだ。
3)浴びるように見ること:毎日見る習慣をつくること。これである。

好きな映画と出会うのも結構だが、映画というのもを好きになる方がもっと素敵なことだと思える人がどれだけ増えるか、そこにしか映画の未来はない。
ま、とどのつまりは、「時間」との戦いなのだろうが、残り時間はそう多くは無い。