2ペンスの希望

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見る力②

見易くなったのに、見なくなった話。
今日は「作る側」の「見る力」の話。
先夜、或るニュース映画カメラマンから聞いた話。撮影歴四十年。
その受け売りから始める。
昔は大変だった。フィルムの時代、電動モーターが付く前のムービーカメラは手動だった。手回しネジでゼンマイを巻いた。ニュース用アイモは一巻きで40秒。それ以上は廻せなかった。レンズの選択、ピント合わせ、光量の計測と絞りの設定、ワンカット撮影するためには、最低限これだけのことをしなければならない。そうでなければ、カメラは廻らなかった。いな、廻せなかった。いいや、廻さなかった。
フィルムの感度も高くなかった。暗いと写らなかった。物理的に撮れないのだ。ライトが必須だった。
だからニュースカメラマンは大変だった。事態(=撮影対象)は時々刻々変化する。どこでゼンマイを巻くか。タイミングを間違えると撮る画を逃してしまう。間合いを読む。そのうえで、40秒で使える画を3カットは押さえなければならない。剣道で相手の動きを読む要領だ。だからこそ、撮影対象を必死で見ようとした。真剣勝負。神経を研ぎ澄ませて、見るものに向き合った。そうすることで、見る力が磨かれていった。

そんな話だった。
時代は変わった。カメラは進化して全自動になった。事前の準備はすべて機械がやってくれる。だから、手間に縛られること無く対象に向き合える=対象を見ることに全精力を集中できるようになった。その筈だった。しかし、結果は違った。
見易くなったのに、見る力は衰えた。
対象を凝視しなくても撮れてしまう、写ってしまうことの怖さ。緊張からの解放が産んだのは、精神の弛緩だったというお粗末。
下半身を鍛えないでリングに上るボクサーに勝ち目は無い。
かの小田嶋隆さんも書いている。
たとえばの話、あらかじめ剥いてあるじゃがいもが厨房に運ばれてくるシステムが整備されると、わざわざ皮を剥く調理人はいなくなる。 皮だけではない。昨今の文化的じゃがいもは、用途別にあらかじめ下処理された状態で入荷してくる。
と、下茹でも、裏ごしも、賽の目切りも不要になるわけで、そうこうするうちに、その種の、板場の見習いの訓練過程として機能していた作業の消滅に伴って、若い板前からは、調理にかかわる基礎技術が失われるに至る。
」【メールマガジン日経ビジネスオンライン『ア・ピース・オブ・警句』2012年11月2日「じゃがいもの皮を剥く暇を与えよ」】
人は即席麺ではない。お湯をかけても3分では出来ない。

「ぜいたくは素敵」だと思ってやってきたけれど、やっぱり「ぜいたくは敵」だったのだろうか。