2ペンスの希望

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分類不能

人は分からないものは遠ざけようとする。正体不明は気味が悪い。怖い。
北山修さんはこう言っている。
「分かる」とは、分けることが出来る・あるカテゴリーに分類可能だということ、逆に、
「分からない」とは分けられないこと・分類不能。腑に落ちないためいつまでも処理できない。それが不安や恐怖、不気味さの対象となる、
と。
【『幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方』朝日出版社2012.9.刊】
新しいもの・知られていないものは、まさにそれゆえに分かりにくい。そういうものだ。
理解不能だといって否定してしまっては、新しいものは育たない。
中途半端な専門家が一番始末に悪い。分からないことを恥だと思っているから、すぐに否定する。分からないことは恥ではない。不勉強なだけだ。世界の全てを分かる人なんてどこにも居ないのだから。
分からないからといって排除してはいけない。分からないものがあることを認める器量が欲しい。 自分が理解できないものにも寛大であれるかどうか。得体の知れないものの奥に何か伝えてくるものがあるとき、その熱を感じるセンサーを閉じてはいけない。
分類不能こそ明日への導火線かもしれない。
みんなに分かるものだけが受け入れられる社会は、貧しい。
(それにしても、「分かる」映画が多すぎるよなぁ)