2ペンスの希望

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一スジ‥新釈

一スジ二ヌケ三ドウサ、映画ファンには御馴染み、牧野省三先生のお言葉だ。
かのウイキペディアにも「スジは脚本、ヌケは映像美、ドウサは役者の演技を指す」と記されている。ゆるぎなき真理。何も言うことはない。
ただ、無謀な「映画の何でも屋」としては、ここらで勝手な拡大解釈も試みてみたい。

一スジ:強くてシンプル、誰が読んでも納得のシナリオなんてそうそう簡単にモノに出来るわけではない。そこで、スジを、映画の「設計」とか「戦略」と読み替えてみる。この映画で何を目指すのか、誰に何を届けるのか、映画がチープになって以来、作れればいい、完成することだけが目的、映画ごっこが出来れば満足、としか見えない映画が少なくない。台本がなっちゃいないどころか、映画全体が何の為に作ったの?と首を傾げたくなるのが増えた。参入障壁が低くなったことは絶対に正しいが、そこで易きに就いたのでは申し訳が立たない。(誰にかって?先人たちと映画に対してだ!)
スジが悪すぎる。

二ヌケ:テーマやトレンドなど(映画や表現とは別次元・別要素で)評価され、持て囃されることが多すぎる。二時間近く観て、うーんと唸るような画・印象に残る映像がひとつもない・ゼロではお粗末に過ぎないか。
ヌケ=映像美でもいいが、ここではヌケ=映像の重力・密度・硬度と言ってみたい。社会問題、重要課題、家族、愛情、絆、そんなものよりも、なによりも「映画」が観たい。
映画館は、勉強会でもカルチャースクールでもなかろうに。

三ドウサ:フィクションだろうとノンフィクションだろうと、ジャンルは問わず、
登場人物(タマ)の魅力は欠かせない。人間性から演技力まで、魅力の中身・スタイルは色々あろうが、見ていたくなる登場人物(タマ)と出会えるかどうかが生命線。醜くても目が離せないのはアリだが、「見て(いるほうが)痛くなる」ようなのはダメだろう。が、それもまた人それぞれか。

いかがなものだろうか?新釈一スジ二ヌケ三ドウサ。
映画は目の欲望、見たことがないものを見たい。