2ペンスの希望

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何をいまさら

映画の善し悪し、落差ってなんだろう、と考えている。
何をいまさら、と言われそうだが、人は何故映画を見るのだろう。
何十年も見てきて今も映画を見るといつも、何がしか共感できるものを探している。
登場人物のあれこれなり、物語の世界観なり、作り手の美意識なり、である。
昔読んだ超寡作映画監督サンの本にこんなのがあったなぁ、と思い出した。
映画は一人で見るものだ。他の人がどんな気持ちで見ているかはわからない。結局、自分の気持ちは自分しか分からない。だから、その気持ちが少しでも伝わるようにと‥どの作り手たちも腐心している。私もそうだ。
人は映画に何を求めているのだろう。
単なる娯楽、気晴らし、憂さ晴らし。気散じ、時間潰し、暇塞ぎ 皺伸ばし、なんて言葉もある。すべてよかろう。
「透明人間の変身願望」そう称した友人がいる。闇に浸って自分を脱ぎ捨て、登場人物の誰彼に仮託して、別の人生・境遇を生きる、ということらしい。
理解は出来るが、共感は出来ない、そんな映画もある。
自分には出来かねるが、気持ちは分かるとか、何とか‥。
当管理人の場合はどうだろうか。とどのつまりは、これまでの自分を相対化し、その狭量を越えていく「何か(との出会い)」を求めているのだ。(「何か」としか書けないもどかしさ。けど「何か」なけなしの「何か」
日本で作られている映画って、遊園地やテーマパークぐらいは連れてってくれるけど、旅に連れだしてくれるような映画はなかなかない。」これは或る若い映画監督の言葉。
近しい人との間で、評価が大きく分かれる映画なんてのもよくある話。
自分が美しいと思わないものを、美しいという友人に出会ったら、何故?と訊いてみたくなる。それは、美しさの理由を尋ねるというより、むしろ、相手の見方を理解しようとする行為だ。」 これも先の超寡作映画監督さんの言葉。
生き方も考え方も違う人々に触れる行為。自分ならどうする‥‥、と自らに問う契機
あれこれ思い巡らせていたら、突然、「(せつ)」という言葉が浮かんだ。
映画を受け入れるときのキイワード、としてだ。  (続きは次回)