2ペンスの希望

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ミルフィーユ

映画は、答合わせじゃない。
正解は一つではない。ミルフィーユのように積層している。時代や社会、国家や家族、歴史や文化、環境や風土を深々と読み込むことも出来れば、単純素朴に普遍的な構図(例えば、大人と子供、功利と純真、善と正義、‥)で捉えることも可能だ。
映画には意味や味わいが重層化している、そう考えた方がいい。
題材や筋立てに引きずられ過ぎないようにも こころしておきたい。
我が家にテレビがやってくるだけの話、ノートを返すために友達の家をたずね歩く一夜、それが90分前後に仕立てあげられる、それが映画だ。
ストーリーはシンプルでも、作り手の意図・狙いが一つとは限らない。それほど単純・単一、やわじゃない。こう受け取って欲しい、こう感じてもらえたらなぁと思うことはある。
ただ、成果物がそのように出来上がっているとは限らない。厄介なことだ。よく分からず手探りでごろんと投げ出すこともままある。(管理人にはよくあった。)
「込めたメッセージはこれこれ、伝えたかったのはこういうこと」とスラスラ答えている作者もいるが、惑わされてはいけない。言葉に出来るのなら、映画に作る必要はない。「観る人が感じてもらえたものがすべて、お任せします。」というのは作り手の正直な気持ちなのだ。謙遜でも責任放棄でもない。率直な心情吐露。作家は、神ではない。全能でも万能でもない。映画の怖さと面白さはここにもある。(以前、映画の多様性、不純物が混じる、と書いたことがあった。)
観る人がどう感じたか、それぞれの深さ・キャパシティで受けとめればそれでよい。
映画はミルフィーユ。積層を味読することだ。
答えは一杯ある。いや、答なんて何処にもない。