2ペンスの希望

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秀子のテレビ論

『忍ばずの女』には、高峰秀子のテレビ論もある。
高峰秀子はテレビに出ない」。ただそれだけの簡単な理由で、私は「テレビ嫌い」というハンコを押された。一歩外へ出れば「テレビはお嫌いだそうですが?」という質問ぜめに遭った。「好き」なら出演する。「嫌い」なら出演しない。ただそれだけの理由で片づけられるものならば、世の中こんなラクチンなことはない。
実をいえば、私はテレビを「お嫌い」なのではなく、テレビが心底恐ろしかったのである。

 テレビのインチキ性、ヤラセ、やっつけ仕事のわびしさ、人をバカにしたアチャラカ、聞くに堪えない歌声、トーク番組の悪ふざけ、茶の間には不向きなエログロ、‥‥私が恐ろしかったは、そのようなものとはいっさい関係ない。
私が怖いと思ったのは、テレビ出演者の目、つまり「目の玉」だった。その目は、あるときは台詞をわすれたとまどいの目であり、あるときは金稼ぎのためのしらけた目であり、あるときは人を見下ろした思い上がりの目であった。 俳優を職業とする私は、それらの目にぶつかるたびに、自分を鏡の中にみる思いがして身の毛がよだった。
ブラウン管の中の役者のてんてこ舞いは、いうなれば私自身のてんてこ舞いであり、
役者のゴマ化しは、つまり私のゴマ化しだった。 テレビカメラのレンズは映画カメラのレンズと違って、なんと無責任で苛酷なものだろう。
(と、いうわけで、私はテレビドラマの出演は当分の間、遠慮することにしたが、世間で言われるように「テレビ嫌い」ではないから、『徹子の部屋』とか『人に歴史あり』などのトーク番組にはチラチラと出演した。自分の言葉でお喋りをするなら、同じてんてこ舞いをしても自業自得だと思ったからである。)

目のいい人だ。