2ペンスの希望

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散文の映画 詩歌の映画

荒川洋治さんの講演集『文学の空気のあるところ』を読んでこんなことを考えた。
散文の映画、詩歌の映画。
2013年6月2日東京都北区田端文士村記念館で行った講演「文学散歩と世界」(著書収録時には「名作・あの町この町」と改題)から引く。(一部文章の前後を入れ換えた)
散文の言語は、一点集中です。事実を書くのが散文ですから、基本的には。でもその事実の周囲を、つなぎ目を見せないまま、まじえるようにうたう。それが詩歌のよさですね。‥詩歌のことばは、周囲のものを巻きこみながら出てくるんです。漠然とその辺の、隣りあうものに及ぶ。そういうつくり方ですね。‥
詩歌と散文、その二つがそろったとき文学というものと向き合っているなと、あるいは文学の風景が完全になると思いたいところです。

また別の箇所。
ものを説明する、ものを伝える、これが散文の役割ですね。‥翻訳されれば、どの国の人にもその内容が伝わるようにする、それが散文です。散文は重要なものです。散文があるからこそぼくらも自分の場所を知ることができる。
でもそこに傾きすぎた。そのためにすべての問題は説明がつくと思ってしまった。すべてのことには答があると。でも文学って答がない。‥ほんとうは自分で考えるしかない。‥散文は理解できる。でも詩はちがう。詩は説明をしない
(詩は)いま見えるものだけではなくて、いまはないけれど、人間のなかでいつか必要になるもの、ものとものとのあわいにあって、それが何かは説明がつかないけれど、大切なことにかかわるもの、それをことばで表そうということだと思います。

リアリズムの映画超リアリズムの映画、そう言い換えてもよい。 あるいは、
吉本隆明ばりに「意味」としての映画「価値」としての映画とでも言ってみようか。
長く「意味」に縛られてきた映画は、今やっと「価値」の豊饒に向かう過渡にあるのかもしれない。そう考えれば暗澹たる暗黒も少しは晴れてくるが、困難のハードルはさらに上がった気もする。(この項、続く)