2ペンスの希望

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「意味がないから好き」

ぼくが音楽が好きだというのは、意味がないから好きなんですね。意味が入ってくると、とたんにつまらなくなる」 タモリの言葉だ。 まったくその通り。
木皿泉の連載エッセー最新号にもこんなやりとりがある。
弥生犬(書き飛ばしてますねぇ。放送が終わったら見かえすこともない。意味は、観たり     読んだりした人が、勝手につけてくれると思ってますよね。
縄文猫(受け手が作ってくれている部分がとても大きい。‥中略‥。 だいたい、今は、     意味をつけ過ぎているかもしれません。それで、みんなどこか傷ついている。
弥生犬(太ってる人は不幸だとか、長生きは幸せだとか。
縄文猫(テレビが意味をつけてくれる。
弥生犬(でも、意味をつけることで人は救われたりもするからなぁ。
縄文猫(物語で癒されるのは、そういうことでしょうね。
      【紀伊國屋書店“scripta” no.37 (autumn 2015)「ぱくりぱくられし14」】
自戒も込めて言うのだが、何でもかんでも言葉にして、意味を語るのは人の悪い癖だ。ほどほどにした方が良い。それでも、言葉にしなければ人には伝わらないというのも又一面の真実である。難儀なことだが。
音楽や絵画から感じる言葉にならない官能性が羨ましいときがある。
映画の官能性。映画の全身性。浴びる映画。浸る映画。
映画が出来ると原作と比べてどうだこうだいう批評が必ず登場する。
映画と小説、映画と漫画、まったく異なる生産物・表現物なのに、だ。
映画は原作の言葉を活字から音声に変換し、言葉の純粋性を通俗性に落とし込み、文学から切り離し、文学より優位に立つことができる腹黒い快感がたまらない魅力なんです。活字と文学に対する復讐ができる映画には愛を抱くことができます。映画は文学を沈黙させます。」 横尾忠則の言葉だ。 【2015年9月 青土社 刊『言葉を離れる』
初出は雑誌ユリイカ連載「映画の手がかり」2012年6月号】