2ペンスの希望

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面としての映画史

時間の経過・推移を踏まえた記述ということになると、どうしても線的な歴史になることは、或る程度はやむを得ないことなのだろう。リニアの映画史。日本史、世界史の別があるように、日本映画史、世界映画史、それぞれの地域・国に則した発展・進化、栄枯盛衰が時間軸に沿って語られていく。しかし、地域差を超え、より深いところで通底し、共鳴・共振しながら進んできた「映画の基底部」に届く映画史は本当に不可能なのだろうか。相互作用、相互乗り入れを重ねながら、パクリパクられ、入り交じり入り乱れて、跛行(はこう)的に進んできた「映画世界」(「世界映画」)の歴史の登場を夢想する。いわば、面としての映画世界史。
なのに、世はなべて、マイナー志向。メジャー・メインストリームが消滅して以降、サブカル偏重、オタク・「重箱の隅」派、発見主義・発掘主義ばかりが幅を利かす。特定分野に限定してやけに理解深くマニアックな知識豊富な偏向主義者たち。 些末な腑分け、膨大なジャンル区分が繰り返され、流行り廃りが目まぐるしく移り変わりながら、何ひとつ変わっていない、変わっていかない不健康、親不孝。
トリビアリズムはダイナミズムに欠ける
まっとう正当な(正統なとは言ってない。断じて!)映画史が書かれることを切に願う。
不勉強を棚に上げていうのだが、寡聞にしてかろうじて目にしたのは、映画史家出口丈人さんの「図解 ムーヴィング・イメージの生成」【『映画映像史 ムーヴィング・イメージの軌跡』2004年4月 小学館】だけだ。これも、欧米の映画の生成変化は比較的丁寧に鳥瞰しているものの、香港、中国、台湾、韓国、‥‥東南アジア、中東、南米、アフリカは抜けている。日本映画の位置どりもよくわからない。
それより何より、地域史の集積の次元にとどまる限り、上述の「映画世界」史構想には程遠い。届かない。不満が残る。 (この項続く)